聖 書:ヨハネ2:1~11、

(1)三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
(2)イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
(3)ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
(4)イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
(5)母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
(6)そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
(7)イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
(8)そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
(9)料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
(10)言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
(11)イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

19:26~27

(26)イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。
(27)それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

母の日は花屋さんの主催ではなく、教会が由来の記念日である。イエス様の母マリヤから見ていきたい。カトリック教会で聖母マリヤは、長く信仰の対象とされた。今は、崇拝ではなく特別な崇敬と言われる。カトリックはマリヤを過大評価し、プロテスタントはマリヤを過小評価していると感じる。マリヤの信仰を取り上げる。

Ⅰ.カナの婚礼
ヨハネ福音書では2章から、イエス様が宣教に立ち上られた公生涯が始まる。カナでの婚礼の話が最初に出てくる。イエス様は30才(ルカ3:23)までナザレで家族に仕えておられた。この婚礼は一家に親しい結婚式であっただろう。席上ぶどう酒が無くなってしまった。当時のイスラエルの婚礼は1週間にも及ぶ。母マリヤは急いでイエス様に告げた。4節のイエス様の答えは失礼ではないが、実の母に対して冷たく感じる。鍵となる言葉は「わたしの時は、まだきていません」にある。イエス様は家族を超えて公に奉仕することをマリヤに言明した。この後のマリヤもイエス様への信頼、従順は揺るがなかった。ここに最初のしるし(ヨハネは7つのしるしを記す)がなされた。神様の栄光を見たのは、僕、弟子たち、マリヤのみであった。思慮深いマリヤの心に深く刻まれた。

Ⅱ.十字架の下で
イエス様の公生涯でマリヤは殆ど姿を見せないが、最後のゴルゴダの十字架の下に立つ。何と強い母かと思う。イエス様が残された十字架の七言にはそれぞれの輝きがある。この言葉が最も私的で、イエス様の母マリヤへの思いが伝わる。イエス様は天に帰られることを覚えて、年若いヨハネに老いた母マリヤを託した。マリヤはこのような形で「わたしの時」が来ることを考えてはいなかっただろうが、イエス様の十字架は大きな神様の時であった。ここに神様の御計画であった人類への救いは成就し、罪の赦しと永遠の命が現わされた。イエス様がマリヤに対してカナの婚礼で「婦人よ」と呼ばれ、十字架の上から最後に「婦人よ」と呼ばれた。神様の宣教のための公生涯の始まりと完成である。

Ⅲ.しるしから現実に
カナの婚礼のぶどう酒の奇跡はしるしであると記されている。しるしは本体、実体を表していてもそのものではない。聖餐式のパンとぶどう汁がしるしと実存の意味も持っているように、最初のしるしであったカナの奇跡はイエス様の十字架を表している。ただの水が大量のぶどう酒(2~3メトレテス・80~120Lの水がめが6個)に変えられたように、イエス様の十字架の血潮に大いなる価値と力がある。今私たちはやがて表わされるしるしに頼ることはない。現実にイエス様ご自身を受けることができる。私たちはイエス様を自分の現実として受け止め、ここに生きよう。

この後マリヤはペンテコステの前に出てくるのみである。マリヤは初代教会で敬慕されて生涯を全うしたことは間違いない。イエス様の母となり、救いの展開を見たマリヤであった。特別な経験を持つが、謙遜に、与えられた使命を喜びつつ果たした。私たちそれぞれの道を主に向かって歩もう。