聖 書:使徒行伝2:1~13

(1)五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
(2)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3)また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
(4)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
(5)さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
(6)この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
(7)そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
(8)それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
(9)わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
(10)フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
(11)ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
(12)みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
(13)しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

 

本日は初代牧師である中田羽後師(1896-1974.7.14召天、77才)、森山諭師(1908-1996.7.22召天、88才)召天記念礼拝を迎えた。両師共に7月に召されたので、7月第2聖日を召天記念日としている。今朝は使徒行伝の連続講解から第2章となった。イエス様が約束された聖霊が降るペンテコステ(五旬節)の日のできごとである。中田師も森山師も聖霊に満たされた器であったことは確かなことである。聖霊は一人一人の個性と賜物を活かすという事実を中田師、森山師から見る。聖霊が臨まれるが決して神がかりではない。元々の持てる良きものがさらに豊かにされていく。中田師、森山師が生かされた聖霊の働きを見ていこう。

Ⅰ.時が満ちる
「五旬節の日がきて」とあるが、単に「きた」のではなく満ちるという言葉である。最近、婚約され結婚を控えている方、出産を待つ方がおられ祝福を心から祈る。結婚や誕生は、時々刻々の時の大切さがあり、時が満ちるのを待つ。五旬節の日、聖霊が降るまでの待ち望みを、弟子たちや信じる者たちが一つ所に集まり、心を合わせひたすら祈る姿に見る(1:14)。ただ集まれば良いのではなく、中心に祈りがある。祈りによって、自分が執着する考えや思いが砕かれ、神様が願われている思いや考えに導かれて行く。自分ではなく神様を第一としていくなら、弟子たちや集まった者たち相互の考えや思いも砕かれて一つとなっていくことができる。

Ⅱ.聖霊に満ちる
聖霊の働きは五旬節以前、イエス様以前の旧約聖書の時代は限定的であった。五旬節の時以来、聖霊が豊かに注がれている。この日に聖霊が降った様子は象徴的である。バックストン師の使徒行伝講義から見る。「風が吹いてきた」(2節)とあるが、旧約時代、風は神様の象徴の一つであった。エゼキエル1:4ではエゼキエルへの最初の幻は激しい風から始まる。「音が天から起ってきて」(2節)とあり、エゼキエルは大いなる響きを聞いた(エゼキエル3:12-13)。「炎のように分れて現れ」(3節)とあり、神様の火とは「焼き尽くす火」(へブル12:29)であるという。神様にささげられ、神様によって潔められることに他ならない。新しい聖霊の時代の到来を、聖霊自身が示された。

Ⅲ.神の愛に満ちる
聖霊に満たされた弟子たちはイエス様の十字架と復活を力強く語り出した。不思議にも聖書における全世界の言葉であった。15民族が出てくるが、言語ではセム語(メソポタミア、ユダヤ、アラビア)、ペルシャ語(メジア、エラム)、ギリシャ語(小アジア、エジプト)、ラテン語等になる。これは異言ではない知性の言葉である。創世記11章のバベルの塔以来、言葉は通じなくなり、分れ争う世界になった。イエス様の救いと聖霊が降る時に、やがては通じ合う一つの世界に帰ることができる。ここから神様の元に一つにされる宣教の働きは進んでいくのである。

中田羽後師も森山諭師も、聖霊に満たされ、聖霊に揺り動かされ、尊い主の働きを進められた。この時代への宣教の業を聖霊によって進めていこう。