聖 書:Ⅰコリント11:23~29

(23)わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
(24)感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
(25)食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
(26)だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
(27)だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
(28)だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
(29)主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

 

世界人口は2019年度推定77億人。世界最大の宗教としてキリスト教人口は24億人と言われ、世界では10人の内3人強はキリスト者である。本日は世界聖餐日である。全世界の全ての教会が聖餐式を執り行っているわけではないが、地域、言語、文化、肌の色を越えて主にあって共にささげられる聖餐であることは感激である。

Ⅰ.イエス様からの直接の継承
教会とは何かという定義付けの一つとして「正しく御言が語られ、正しく聖礼典が執行される。」との言葉がある。御言の説教、洗礼式・聖餐式の執行が正しくなされなければ教会とは言い難い。今日は聖餐について語るが、パウロは「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」(23節)と言っている。パウロはイエス様に会っていないのに「主から受けた」とまるで聖餐の恵みを直接受け取ったかのように言う。パウロはイエス様昇天後の使徒であるが霊的・信仰な意味で会っている。私たちも同じくイエス様にあっていないが、私たちの聖餐式もイエス様の最初の聖餐式、最後の晩餐を受け継いでいる。司式は目前の牧師が行うが、時間・空間を超えてイエス様から受け取ると感じていただきたい。

Ⅱ.イエス様による新しい契約
聖餐式は新しい契約(25節)とある。古い契約とは過越しの祭である。出エジプト記12章には、十の災いの最後にエジプトの全ての初子が撃たれる恐るべきできごとが起こる。イスラエルの家庭では、一頭の傷のない小羊が屠られ、血はかもいに塗られ、肉は火に焼かれ、過越しの食事とされ、災いから守られた。イエス様の最後の晩餐がこの過越しを記念とした食事だったのは、神様の深い御旨である。出エジプトの過越しは、イエス様の十字架のひな型、予表であった。イエス様は過越しの食事を弟子たちと共にされ、続いてパンを裂き、ぶどう酒の杯を取られた。この場面は過越しという旧約の古い契約が、イエス様の十字架という新約の新しい契約に取って代わられるその時なのである。イギリスのW.F.フレミングトンは「この第一回目の晩餐は、全時代の全教会の代表である弟子たちが、そこで第一回の聖餐式にあずかったのである」と言う。

Ⅲ.イエス様が来られる完成
聖書の最も大きな希望は主の来臨である。厳しい戦いはあるが主は勝利され、永遠に至る新天新地が現される。主の救いの完成であり、私たちは永遠の栄光に与る日である。イエス様が来られる日まで「主の死を告げ知らせる」(26節)とある。イエス様の十字架の死と復活こそが私たちの全ての基となる。私たちの罪と死を清算してくださった。ここから始まった救いが終わりの日に完成する。その日まで私たちは主の恵みに生かされながら、共に聖餐を守り続けていく。

私たちは語られる御言と呼ばれる説教によって生かされ、見える御言と呼ばれる聖餐によって強められて行く。このことは教会のみの働きである。説教と聖餐の場である礼拝こそが私たちの生活の中心に置かれていく。