聖 書:マタイ1:17-25

(17)だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
(18)イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
(19)夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
(20)彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
(21)彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
(22)すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
(23)「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
(24)ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
(25)しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

 

昨日の第52回メサイア公演の神様の恵みと御奉仕に感謝をささげる。待降節第三主日を迎えた。クリスマスを迎えるメッセージを続いて語る。

Ⅰ.人間の歴史(17節)
マタイによる福音書はアブラハムからダビデを経てヨセフ、マリヤに至るイスラエルの系図から始まる。世の中の系図は自分の正統性、立派さを示すものでもある。Cf.豊臣秀吉が自分の出身を隠すために源氏や天皇家との関係を盛り込んだ系図を作らせた。… アブラハムから42代に及ぶ系図はイエス様を持ちあげるためのものだろうか。男系社会で系図に女性の名前が出てくることはないが、4人挙げられている。タマルが子を得たのは正当なことではなかった、ラハブはエリコの町の遊女、ルツはモアブ人、ウリヤの妻バテシバはダビデの子ソロモンを宿す。人間の歴史は罪や汚が含まれる。イエス様はそれを恥とせず、罪と汚れの只中に生まれてくださった。イエス様の救いこそは、どこに生まれても、どんな罪があっても開かれた恵みであることが示される。

Ⅱ.人間の限界(18-19節)
先週語られたようにマリヤは聖霊によって救い主イエス様を宿していた。マリヤはヨセフに告げておらず、ヨセフはこの事に悩み、苦しんでいた。常識であればマリヤは自分以外の男性と通じていたことになる。ヨセフは神様の教えを大切にする正しい人であった。義を立てるならば、マリヤの罪を告発し、石打にさせることになる。人間の考え、人間の正しさはもちろん大切であるが、それでは解決できないことにヨセフは苦しんでいた。ヨセフはマリヤとの結婚を望んでいたが、ヨセフは自分が身を引くことでマリヤは守られるという結論に達して、公にせずに離縁しようとしていた。一生懸命でありながら相手に真意が伝わらない、解決が見つからない、人間の届く範囲は限りがある。

Ⅲ.神様の介入(20-25節)
ヨセフに神様は御使いを通して夢で語られた。マリヤがみごもっているのは聖霊によるのである。生まれる男の子は救い主であり、イエス(旧約ではヨシュア、神は救い)と名付けるようにと告げられた。ヨセフは自分が置かれた状況を懸命に考え、何が最善かを求めた。神様の言葉はそれらを超えて臨んでいる。神様がマリヤに、ヨセフの歩みにに直接に介入された。また、イエス様がお生まれになったことは、この世の全ての人への介入である。イエス様は「インマヌエル」神われらと共にいます御方である。イエス様はただこの世に来られただけではない、全ての人と共に歩むために、私と共に歩むために来られた。マリヤの内に、ヨセフの内に介入された神様は、私の内にも介入される。

人間がどんなに一生懸命でも、どんなに考えても限界はある。人と人との間に通じあえない壁がある。その壁を越えてイエス様が来てくださり、私たちの間に生きてくださる。そこに神様にある喜び、栄光が表れていく。イエス様を心にお迎えするなら、私たちの人生は他者と生きる者として導かれる。