聖 書:ヨハネ2:1~11
(1)三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
(2)イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
(3)ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
(4)イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
(5)母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
(6)そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
(7)イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
(8)そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
(9)料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
(10)言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
(11)イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

2020年を迎え、先週の元旦礼拝に続いて、今日から52週の聖日礼拝が始まった。礼拝奉仕者(司会、奏楽、聖書朗読、聖歌隊、受付、献金、PA、見守り他)に感謝。何よりも神様を求めて祈り集まられる会衆の皆様に主の恵みが豊かに注がれるように。説教者のためにも祈りをお願いしたい。1年の始めにイエス様の宣教の初めを見ていきたい。

Ⅰ.私たちの行き詰まり
ヨハネ1章後半はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、弟子たちを召し出されたことを記す。イエス様が働きを始められ、最初に向かわれたのがカナの婚礼であった。イエス様が家庭や家族を大切にされたことが解る。当時の披露宴は1週間続くこともあった。ぶどう酒が無くなることもあっただろう。私たちも日常生活に計算外のことが起こって来る。しかし、そのことだけでこの話は終わってはいない。ここからイエス様は働きを起こされて行く。私たちの日常の行き詰まり、お手上げという状態から、イエス様は働き出してくださるのである。

Ⅱ.イエス様への信望
披露宴でぶどう酒が無くなるという失敗を、新しく出発する2人にどうしても避けさせたいと誰もが思う。母マリヤはイエス様ならばという思いで訴える「ぶどう酒がなくなってしまいました。」。マリヤはただ事実だけをイエス様に述べた。私たちは祈る時、神様にあれこれと回りくどく言い、自分の考えを押し付けようとしてはいないか。神様に必要、願いをそのままにお伝えするべきである。マリヤのありのままの願いにイエス様もすぐさまにお応えになる。しもべに命じられたのは水を汲むことであった。しかし、2,3メトレテス(原語、39リットル相当の単位)のかめが6つでは最大702リットルになる。人力で井戸まで汲みに行くことは重労働である。水はあくまで水であってぶどう酒には変わらない。イエス様に絶対的な信頼がなければ誰も従えない。

Ⅲ.神様が表されるもの
水をぶどう酒に変えられたこの話から、イエス様が私たちの必要を手品のように出してくださる御方と考えていけない。イエス様はこのことによって何を表されたかったのだろうか。第一には、このことによって弟子たちがイエス様を神として信じることである。第二には、「しるし」(11節)の意味を受け止めていくことにある。ぶどう酒は、イエス様が最後の晩餐に廻された杯、イエス様の十字架の血潮を指し示している。イエス様が十字架にかかられる時こそが「わたしの時」(4節)である。イエス様が十字架にかかられるまで弟子たちはこの後3年ほどを共に過ごす。最初のしるしから十字架は指し示されていた。この奇跡によって表された神様の栄光は、イエス様が再び来られる栄光の前にはごく小さなものにすぎない。

イエス様の「しるし」を見たのは、弟子たち、母マリヤ、水を汲んだ僕だけであった。イエス様の側にいてイエス様を受け止めていた者だけである。この年、私たちはイエス様の「しるし」を見たい。イエス様に近い者、イエス様を信じて従う者であろう。