聖 書:エレミヤ31:1-6

(1)「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」。
(2)主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時、
(3)主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。
(4)イスラエルのおとめよ、再びわたしはあなたを建てる、あなたは建てられる。あなたは再び鼓をもって身を飾り、出て行って、喜び楽しむ者と共に踊る。
(5)またあなたはぶどうの木をサマリヤの山に植える。植える者は、植えてその実を食べることができる。
(6)見守る者がエフライムの山の上に立って呼ばわる日が来る。『立って、シオンに上り、われわれの神、主に、もうでよう』と」。

先週はエレミヤ書第1章が開かれた。北王国イスラエルは既になく、南王国ユダも大国の狭間で風前の灯である。厳しい時代、預言者エレミヤの召しは神様の選びと備えであることを語った。今の時代に私たちもそれぞれの使命に召されている。私たちが神様に対して忠実であることと同時に、神様が責任を負われていることでもある。

Ⅰ.神様の回復の約束
先週も語ったが、神様がエレミヤに託されたメッセージは、やがてユダもバビロニヤに滅ぼされる、戦わずに降伏すること、捕囚の70年後に連れ帰るという約束であった。ユダの敗北、滅亡、捕囚という厳しいメッセージであった。神様は、ユダの背信の罪とその裁きを語られただけではなく回復をも約束された。エレミヤ書30~33章は慰めの書と呼ばれ、特に31章はイスラエルの復興と新しい契約が記されている。北王国イスラエル(2-22節)、南王国ユダ(23-26節)、両国全体(27-40節)に語られる。北王国イスラエルの首都サマリヤ陥落は紀元前722年、すでにこの時100年を経ており、異国の支配下、異民族が住んでいた。北王国、南王国それぞれの現実は回復にはほど遠い。

Ⅱ.神様の無限の愛
既に無い北王国イスラエル、今まさに消え去る南王国ユダに神様は「主は言われる、その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」(1節)と宣言される。驚くべき回復の約束は「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(3節)に裏付けられている。神様の無限の愛、神様の不変の真実が約束の基盤である。2節には「荒野で恵みを得た。」という言葉がある。荒野の恵みとは出エジプトの40年間の荒野の旅路と関係がある。モーセの時代、荒野の40年という神様に背いた忘恩の民、砂漠をさすらう難民という印象がある。申命記29:5には「わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。」とある。神様は食料、水、衣服…全てを備えて導かれた。民数記には2回の人口調査(兵役につく成人男子)があるが、出エジプト2年目603,550人(民数1:46)、カナンを目前にした約40年後601,730人(民数26:51)でありほぼ保たれている。荒野の40年は恵みの期間でもあり、何もない荒野で神様と神の民との間の純粋な交わりがあった。

Ⅲ.神様にある喜び、恵み
今、私たちはコロナウイルス禍によって荒野に留まっているかのように感じていないだろうか。イスラエルの民は長い歴史の中で、荒野でこその恵みに与った。今、大きな災害ではあるが開かれている恵みを受け取ろう。荒野の話が長くなったが、神様はイスラエルに復興を約束され、実際になされていく。喜びと楽しみ、豊かな結実(4-5節)があること、礼拝の回復が約束されている(6節)。

厳しいエレミヤの時代に多くの痛みがあったが、神様による回復の恵みが、ご自身の愛によって保証されている。今を生きる私たちにも確かな神様の約束がここにある。