聖 書:ヨハネ黙示録22:16-21
(16)わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
(17)御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
(18)この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
(19)また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
(20)これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
(21)主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
先週から礼拝説教で学びの要素をとり込んで語る。最初のテーマ「聖書」の第2回である。前回、聖書は正典であるということを話した。改めて、当教団信仰告白の聖書の部分を共に読む。
Ⅰ.聖書の霊感
先週開いたⅡテモテ3:16「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」とある。霊感という言葉は神がかりのように感じられるかも知れない、芸術や音楽等で撃たれたような
ひらめきのような表現がある。霊感(セオプニューストス)は神様の息吹による、神の霊によるという言葉である。聖書の霊感とは一般のひらめき、感動ではなく、歴史上の神様の特別な働きである。
詳しい話は別の機会に譲るが聖書記者に霊感はどのように働いたかは諸説がある。神様の力に動かされる動力霊感 (≠機械霊感:つかれたような神がかり)、言葉にまで及ぶ言語霊感
(≠思想霊感:思想だけが与えられた)、聖書全体に及んでいる十全霊感(≠部分霊感:理性が届かない部分だけ)という考え方をとる。聖書は神様が聖霊を通して、40人余りの記者を用いて完成へと導かれた。
Ⅱ.聖霊による照明
聖書記者に霊感を与えた聖霊は、私たちが聖書を読む時に照明を与えられる。この世の真理、知識を得ようとするならさまざまに学んで得る。神様の真理、知識を得るには聖霊が助けて下さる
(ヨハネ16:13)「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」。Cf.神学生の夏期実習、聖会の手伝いに行った。前週の祈祷会に来られた字の読めない老婦
人の話。神様の業の確かさ、公平さに感動した。… 今、私たちは聖書を読むが、聖書は読む時代よりも、聞く時代の方がはるかに長かった。長らく字を読める人は一握りの知識階級に過ぎず、
聖書が手元に置けるほど普及したのも近代になる。御言は読むにしろ、聞くにしろ、聖霊が働かれ心を照らし、救いへと導き、キリストの姿へと導く。
Ⅲ.聖書の完全さ(黙示録22:16~21)
聖書は完全、十分である故に、書き加えることも、言葉をとり除く必要はない(黙示録22:18・19)。聖書を開く時に聖霊が働かれ、神様の深い思いを教え、恵みに至らせて下さる(Ⅰコリント2:10~13)
。神様は私たちの信仰の量りに従って信仰を、知識を増し加えようとされる(へブル6:1・2)「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。
今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。」
アウグスチヌスは神の光によってしか人間は神を知ることはできないと言う。私たちの手元には神の光である聖書がある。神の光を受け止められるように導く聖霊が働かれている。手を取って教え導か
れる真実なる神様により頼んで歩もう。