聖 書:Ⅱテモテ3:10~17
(10)しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、
(11)それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。
(12)いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
(13)悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
(14)しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
(15)また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
(16)聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
(17)それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
本年度は今日から礼拝説教に学びの要素をとり込んで語る。別に学び用シートも作成している。方向性をもって歩み出すための基礎としての学びである。礼拝説教なので生ける神の言を語ることが主眼であり、講義や講演にならないよう気を付ける。最初のテーマは「聖書」である。当教団信仰告白の聖書の部分を別刷りにした。今日の話しの内容はここに尽きる。「スライド1」
Ⅰ.聖書の正典性「スライド2」
他の宗教であれば経典は聖典と呼ばれ、正典とは呼ばれない(仏教は釈迦の言葉スートラに始まって、一切経、大蔵経。イスラム教はムハンマドに与えられた啓示がクルアーン、他も使う)。正典(Canon、カノン)は元々、葦の茎を指している。真直ぐに伸びた葦の茎を定規に使った。聖書はもちろん聖なるものであるが、正という言葉が使われるのは正しい、基準となることにも重点が置かれている。聖なるものとして崇め、拝むのではなく、私たちの生活そのものに適用されていくことが大切なのである。日々、御言に親しみ、御言に生きる私たちである。
Ⅱ.神様の権威「スライド3」
聖書の著者は40人ほどに及ぶ。王、貴族、学者、医者、漁師、農夫 …。一般的に最古はモーセが記した創世記から申命記までの5書(トーラー・律法の書)であり、凡そ紀元前1500年前後。新約聖書の各書巻が紀元後1世紀中に記されている。時代も、著者、書かれた場所等ばらばらであるので、編纂作業が必要であった。旧約聖書39巻が確定したのは紀元後90年のヤムニア会議であり、新約聖書27巻が確定したのは紀元後397年の第3回カルタゴ会議である。聖書の周辺文書にはカトリック教会が第二正典にしている旧約続編(外典)、全く信憑性に欠ける偽典がある。聖書が会議で確定されたというと、人間の考え、思惑が働いているのかと思われる。正典とそれ以外には真実性、信頼性が明確に違う。預言者や使徒という神の人が記した信仰と人格、導かれた神様の権威が明らかである。各会議は選択の作業ではなく、確認の作業であったと言われる。
Ⅲ.信仰と生活の基準(Ⅱテモテ3:10~17)
聖書は歴史を通じ、世界中で比類のない書物である。聖書は私たちと縁遠いものではなく、親しむ(15節)ものであり、イエス様への信仰に導くものである。私たちを神様の救いに与らせるものである。信仰をもって聖書を読めば、神様の業が私たちになされていく。学者のように分析する、道徳の教科書のように… 読んだとしても命は得ない。聖書はこの一冊で完結しており、何も付け足すことも、引くこともない。どんな時代にも、どんな人にも完全である。この泉から毎日命の水を汲み続けても涸れない。日々、新しい恵みをいただきつつ歩むことができる。私たちは当然すぎて、有難味を失っていないだろうか。神様の前に謙って謙虚な者とされることが、無学な者とされる(詩篇119:130)ことであり、神様からの光が与えられる。
「スライド4」宗教改革者は3つの「のみ」(Sola、ソラ)を語った。聖書のみ、信仰のみ、恵みのみである。聖書が示す救いの大きさ豊かさを、信仰を持って受け止めるために、神様の恵みを求めよう。