聖 書:Ⅰペテロ 1:13~16

(13)それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
(14)従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
(15)むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
(16)聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

「血潮は創世を源流とし、十字架において本流となり、やがて神の御国に注がれ、大海となる」
Ⅰ 聖化(きよめ)
聖書の教えは膨大なものです。「きよめ派」は、それを「新生・聖化・神癒・再臨」、「義認・聖化・栄化」と要約しています。
1 分離されたもの
この言葉が聖書で最初に使われた記事は創世記2章3節です。〈神は第七日を祝福して、これを聖別された〉のです。「聖別された、分離された」という言葉から「キリストの血潮」を探る必要があります。「キリストは、神のかたちであられたが、~十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6-8)。この言葉はキリストの謙遜だけでなく、神から見放され、分離され、十字架にかかって血を流されたという側面を見逃してはなりません。
2 神に捧げられたもの
聖化とは「神に捧げられ」ことを意味しています。聖書は「聖なる供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と推奨し、それが「なすべき霊的な礼拝である」と結論づけています。
Ⅱ 聖化(きよめ)の三過程
1 初時的聖化
新生と聖化は別個のものでも、切り離されたものでもなく連続した経験です。つまり聖化は新生から始まっているという意味で、「初時的聖化」と呼ばれます。
2 漸進的聖化
神が私たちを選んで下さったのですから、主ご自身が責任を持って育てて下さるのは当然のことです。しかし残念なことに中途で棄教する人も結構おられます。その理由は様々ですが、信仰上の行き詰まりもその一つだと考えられます。
3 転機的聖化=全き聖化(きよめ)
私たちは心ならずも恵まれないクリスチャンに堕してしまうことがあります。実はその時こそが「聖化(きよめ)」を求める時であり、きよめを追求する時なのです。この時に大切な役割を果たされるのが聖霊です。聖霊は私たちの心の状態を探り、その原因を示して導いて下さいます。私たちは聖霊の導きに従って、全き悔い改めと全幅の明け渡しと真実な信仰をもってキリストの血潮を仰ぐ時に、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(第一ヨハネ1:7)と宣言して下さるのです。
Ⅲ 聖化(きよめ)の歩み
私たちの信仰の歩みは、単なる机上の空論ではなく、実際に生活化されていくことが重要です。
1 聖なるかたにならうこと ・心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望むこと・従順な子供として歩むこと、無知であったときのさまざまな欲望に従わないこと。
2 光の中を歩むこと 「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(第一ヨハネ1:7)
3 悔い改めること「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(第一ヨハネ1:9)