聖書:マタイ9:9~13

(9)さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
(10)それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
(11)パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
(12)イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
(13)『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

第一週の礼拝ではイエス様を知るという主題を掲げてきた。前回はルカによる福音書4章からイエス様が神様の恵み、良い知らせを全ての人に語られ始めたことを語った。マタイによる福音書は4章が荒野の誘惑、5~7章が山上の説教、8章からはずっと癒しの記事が続く。今朝はその後の記事になる。

Ⅰ.招かれるイエス様
イエス様は当初ガリラヤ湖畔のカペナウムを拠点とされていた。町外れで取税人マタイが収税所で税金を取り立てていた。説明までもなく、当時のユダヤはローマ帝国の属州でローマへの税金を納める必要があった。取税人が税収に当たるが、彼らは余分な取り立てをして私腹を肥やしていた。一般市民にとって二重に忌々しいことであった。取税人は、(11:19)「大酒飲み、罪人の仲間」(18:17)「異邦人」(21:31)「遊女」と一括りにされ悪人の代表のように疎外された。マタイは恐らくは自分でこの道を選び、お金は得ていても、そこに満足し無感覚になっていたのではなかった。それは9節「わたしに従ってきなさい」との招きの言葉に立ち上がって即座に従ったことから解る。

Ⅱ.交わりを持たれるイエス様
マタイはお金があっても空しい気持ちを持っていただろうが、イエス様の招きに即座に従うことは何と決然としているかと思う。この福音書を記すことになる人物だから立派なのかと考えやすい。マタイは素晴らしいと褒められているのではない。Cf.礼拝で学んでいるがローマ12:1「なすべき霊的な礼拝」のなすべきは、ふさわしい、理に適った、当然のささげものと訳す。…ペテロ、ヤコブ、ヨハネといった弟子たち、主の恵みに与った者たちは自分をささげ従っていった。マタイの家での様子は取税人仲間、友人たちが集い、パリサイ人が驚いている。イエス様は自然にその場におられる。誰が相応しい、相応しくないもない。イエス様は招きに応えて集う者たちと喜んで親しく交わられる(ルカ19:6~、黙示録3:20)。天国に分け隔てがないように地上の救いも分け隔てがない。

Ⅲ.宣言されるイエス様
パリサイ人たちはこの様子を苦々しく思った。イエス様は丈夫な人と病人、義人と罪人という相反する言葉を語られた。パリサイ人は自分たちは健康で正しい人間、取税人たちを病気で罪の内にあると見ていた。パリサイ人はイエス様を必要と思っていなかった。しかし、マタイは自分にイエス様の救いが必要であると、立ち上り従った。マタイは自分の内にある罪も不足も認めていた。自分を正しいとするパリサイ人の方が実は取税人よりも神様より遠い、罪深い者であると言える。ローマ人への手紙は最初に人間とは何かを語る。(ローマ3:10)「義人はいない、ひとりもいない。」が結論である。神様の前に誰もが罪人であり、欠けがあり、イエス様を通しての救いが必要であることを見る。

パリサイ人は、外見は立派だが形だけであった。マタイは罪人とされていたが主に憐みを求める魂の叫びが届いた。主のあわれみなくして私たちは救いに与ることはできない(詩篇51:16・17)。私たちは赦された罪人として主に従っていこう。