聖書:エペソ5:15~21

(15)そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
(16)今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
(17)だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
(18)酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
(19)詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
(20)そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
(21)キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

礼拝について語ってきた。昨日からの神学校アウトリーチ「礼拝学」も本日午後3時から第2回となる。併せて恵みと学びの機会としていただきたい。教会外の人たちには、礼拝とは心静め、心清らかにという静的な印象が強いだろう。静けさ、厳粛さは当然だが、礼拝は受身・受動的なものだけではない。礼拝は応答・能動的な動的なものでもある。礼拝には神様から人に賜る、与えられる、呼び出す働き(call)、人が神様に応えて供える、ささげる、応答する働き
(response)が織り込まれている。応答の祈り、賛美、献金を取り上げる。

1.神様への応答である祈り
礼拝の中で語られる神様の言葉が説教であるが、人間の言葉として応答されるのが祈りである。式順序の中での違いはある(開会、牧会、応答、感謝祈祷)が、祈りの要素は1)賛美・神のみを崇める、2)感謝・神様の愛に対して、3)悔い改め・自省の思い、4)願い祈り・信仰の熱心さ、ルカ11・18章参照、5)執り成し・万人祭司として、である。神様の前に立つ私たちの信仰姿勢が込められている。最後の祝祷は閉会の祈りではなく、派遣のための会衆の聖別である。礼拝祈祷は定型がありつつ、同時に信仰による自由がある。

2.神様への応答である賛美
教会音楽を語るには乏しい者だが、旧聖歌の中表紙にエペソ5:19が記され、中田師の聖歌の理念であると受け止めている。賛美は、美術や建築以上の身近さをもってキリスト教的伝統の豊かさを表している。旧約聖書中モーセ、ハンナ、イザヤ、ハバクク等の賛歌があり、何より詩篇は本来朗唱するものである。新約聖書にもクリスマスを巡る賛歌、初代教会の賛美の断片等が出てくる。聖書は聖歌隊、器楽についても多く言及される。ユダヤ教からの伝統、東方教会・西方教会の発展、プロテスタントの興隆、…歴史上、宗派、教派、文化、社会の違いが大きく、賛美は多様性に富んでいる。新約聖書以降の賛美は(へブル13:15)「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」に表されている。

3.神様への応答である献金
献金は礼拝者が献身の応答を込めてささげる供え物である。旧約聖書のささげ物に触れると、1)燔祭・レビ1:1~、2)素祭・レビ2:1~、3)酬恩祭・レビ3:1~、4)罪祭・レビ4:1~、5)衍祭・レビ5:14~の5種類があり犠牲の動物がささげられた。新約聖書に至って、イエス様は世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)として来られ、十字架において永遠に全うされたささげ物(へブル10:14参照)となられた。最も尊い犠牲の血を注いでくださった神様の愛を前に私たちは応答せざるを得ない。旧約のささげ物においても傷もしみもない動物が必要だったように私たちも真心からの応答をささげる。神様が天の窓を開かれ、恵みを注がれることを信じてささげるものである(レビ27:30~、マラキ3:10)。

私たちは自然に礼拝をささげると言う。ささげることの意味を考え、相応しくささげる者となろう。私たちの真心を主は喜んで受けて下さり、恵みを分かちて下さる。