聖書:エペソ2:14~22

(14)キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
(15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
(16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(18)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
(19)そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
(20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

10月は聖餐月間として、礼拝と共に聖餐に与られることを願う。説教に学びの要素を取り入れながら「交わり」の第2回となった。今のこの時が遠隔、分散、ディスタンスと言われるが、交わることの意味を考える良い機会である。

Ⅰ.イエス様による平和
平和というと争いが無い穏やかな状態が思い浮かぶ。平和を願う沖縄の「平和の礎」、広島の「平和記念資料館」は大切である。人間同士の争いは常にあるが、神様と人との関係についてはなかなか思い至らない。本章前半で人間は「生まれながらの怒りの子」(3節)、新改訳2017「生まれながら御怒りを受けるべき子」とある。罪過、罪、自我に生きてきた人間は神の怒りに触れている。しかし、イエス様は神様と私たちを十字架によって和解させてくださった(16節)。イエス様こそが私たちの平和である(14節)。イエス様は神様と私たちの間の平和となり、人と人との間の平和となられた。神様との和解・平和は、人との和解・平和を生み出していく。その真中で結び合わせるものが、神の義と愛が交わるイエス様の十字架に他ならない。

Ⅱ.イエス様による家族
私たちはイエス様の十字架によって神様との和解・平和を持つことができた。その実として、私たちは「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族」(19節)となる。私たちは神の国の国籍を持ち、神様の家族の一員とされた。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」(1ペテロ2:9)とある。神の国の民は聖なる者であることによって、この世の闇や汚れと一線を引いた存在である。神の家族についてイエス様は「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12:50)と言われた。この世の家族を越えた家族がイエス様を中心として集うのが教会である。お互いは神様によって召され選ばれた存在であり、愛し合い、尊び合うのである。

Ⅲ.イエス様による建物
神様との和解・平和による実がもう一つ記されている。私たちが建物・宮を構成しているということである。イエス様の救いの恵みは使徒たち、預言者たちによって伝えられ、信仰の土台が据えられた。一番重要なのはイエス様ご自身が隅のかしら石として不動の存在なのである。私たちは信仰を受け継いで建物として成長する。成長すると言う言葉は、植物、生物、人間に使われる。普通、建物には木、石、コンクリートや金属など構造物を用いる。神の家族が組み合わされた神の宮である教会は、命ある存在として成長する。さらに驚くことは「主にある聖なる宮」(21節)の聖なる宮とは至聖所を表している。私たちが聖霊を宿し、キリストが住まわれる聖なる宮であることは、私たち自身が至聖所であるという。

イエス様の十字架によって神様との平和をいただき、神様の家族とされた私たちである。私たちは神様が引き上げて下さる日まで、神様の御住まいをこの地上に建て上げていく働きに与っている。