聖書:ヨハネ12:20~32

(20)祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
(21)彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
(22)ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
(23)すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
(24)よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
(25)自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
(26)もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
(27)今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
(28)父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
(29)すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
(30)イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
(31)今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
(32)そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

2020年度最後の礼拝となった。コロナ禍の1年を過ごし、個人にも教会にも痛みは多くあるが、主の守りに感謝する。続いての歩み、働きに神様の支えと導きを祈る。本日は棕櫚の主日を迎え、受難週が始まる。福音書はこの1週間に関して、ルカは四分の一、マタイ・マルコは三分の一、ヨハネは二分の一の紙数を費やしている(J.ストット)。

Ⅰ.ギリシャ人の思い
この時の過越の祭にギリシャ人が数名いたが、彼らはユダヤ教の改宗者と考えられる。異邦の地でどのようにユダヤ教を知り、旧約聖書に記された神様を信じ、過越の祭に上ってきたのか解らない。日常に埋もれず、労を惜しまず、真実を求める人々であったことは間違いない。イエス様の誕生の時に異邦の東方の博士たちが礼拝に訪れたように、イエス様の十字架の死を前に、ギリシャ人が面会しようとしたのは興味深い。ピリポとアンデレが彼らの仲立ちをした。ピリポはギリシャ名であり何らかの関わりがあったこと、アンデレは召命の記事(1:35以下)からも気を配る性格の人であったことが解る。私たちはそれぞれに持てるもので主に仕える者である。特別なものではなく、身に付いているものが用いられている。

Ⅱ.イエス様の思い
イエス様はギリシャ人の来訪にありていな挨拶はされていない。神様の栄光について、単刀直入に一粒の麦の話をされた。一粒の麦は地に蒔かれ芽を出し、茎や葉を伸ばし、実が実らせてその使命を果たす。地に落ちて死ぬということは無駄にならない、数十倍の実となって結果が表れる。この実りは自己保存、自己愛ではなく、自己放棄、自己犠牲があって結ばれていく。しかし、一粒の麦の実は命が断たれるのではない。芽が出て、多くの実が結ばれていく中で命は綿々とつながり、数十倍の祝福を受けるのである。イエス様の十字架は暴徒によってなされた非業の死に見えるかも知れない。イエス様の十字架の死によって人類全てに神様の命が及ぶことは、これほど尊い死は無い。救いの計画の実現が神様の栄光であった。

Ⅲ.神様の思い
イエス様は27節「今わたしは心が騒いでいる」と語られた。そのように訳すしかない言葉だがイエス様は不安や混乱にあったのだろうか。全人類の罪の重荷と神様との断絶は私たちが想像できない重みと深さがあるが、イエス様は十字架への道に従うことに躊躇されたのではない。愛する弟子たちの内、ユダは裏切り、他の弟子たちは逃げ去る。総督ピラト、大祭司、長老たちから民衆まで十字架につける者たちはその責を負っていく。付き従ってきた者たちは十字架を悲しみ嘆く。そのような光景を既に理解されていてイエス様は大きな痛みを感じておられただろう。天からイエス様を励ます神様の声が響いた。神様の御声はヨルダン川の受洗(マタイ3:17)、変貌山(マタイ17:5)に続く。誰もこの大きな証しを受け止められなかった。

人は理解、関心、感動は薄い部分を持つ。イエス様は全ての人のために涙を流し、熱い思いを持っておられる。十字架へと歩んで下さった。