説教題:「聖書が指し示すもの」井上義実師
聖書:ヨハネ5:31~40

5:31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
5:32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。
5:33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。
5:34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。
5:35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。
5:37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。
5:38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

新年度も1か月が経つ。4月から聖書が新しくなり通読も行っている。その一助として本年は聖書66巻、各巻の緒論を礼拝で取り上げたい。緒論は総論、概論とも言うべきものでその書巻全体を総括したものになる。各巻の概観と示された箇所から開く。創世記からヨハネ黙示録まで66回、教会暦・行事があるので2年以上かかる。今日はその前に聖書全体から語りたい。

Ⅰ.神様の証し
以前も語ったがキリスト教の神様は啓示される御方である。神様はご自分を明らかにされる、つまびらかにされる御方である。ご自分を一般に明かさない神様もあり仏教で言えば密教と言える。神様がご自分を表わされることを啓示という。1)神様の存在が普遍的に表されることを一般啓示という。①自然全体から神様の存在を知る。宇宙から微小なものまで。②罪によって損なわれているが、人間が神のかたちを持っていることから知る。③歴史の支配から神様を知る。2)神様が存在を、特別に表されることを特殊啓示という。①聖書を通して神様は語られる。②イエス様を通して神様は表された。

Ⅱ.証しされたイエス様
聖書全体はイエス様を証しする(ヨハネ5:39)「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」。神様はイエス様を通してメッセージを語られた(へブル1:2)「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。」。聖書を知ること、学ぶことによってイエス様を知り、学ぶ。イエス様の言葉を知り、行いを知ることによって神様を知る。聖書、神様、イエス様は分かち難く結び合わされ、それぞれを知ることは神様の全体を知って行く。イエス様は御国の奥義を(マタイ13:11)「持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と言われた。神様を知ろうと願う人はもっと豊かに、求めない人は乏しくされる。(ホセア6:3)「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」ホセアは暁のように主は現れ、大雨のように来られると続いて記す。神様は朝日の陽光のように、大雨の到来のように明らかな御方である。

Ⅲ.イエス様による完成
イエス様は私たちの門口となられる(ヨハネ10:9)「私は門です。」。イエス様を通らないで救いに与ることはない。最初の一歩をイエス様の元から踏み出す。イエス様を通って緑の牧場に導かれる。イエス様を知って行くことは信仰、霊性の豊かさにつながる(コロサイ2:3)「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」。イエス様が私たちの導き手であり、永遠の望みである(へブル12:2)「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」。黙示録にあるイエス様はアルファでありオメガである、初めであり終わりであるイエス様に従い続けていく。

聖書を通してイエス様を知って行くことは、イエス様と共に歩み続けていくことである。エマオの旅人のようにイエス様は御言を説き明し、心を強め、力を与えられる。