聖書:コリント第二5章16~21節
5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
コリント第二5:20は今年の新約聖書からの教会聖句になる。私たちはコロナ禍の1年間を過ごし、なお続く状態にある。昨年も教会内では交わりに困難を覚え、教会外には宣教に困難を覚えた。交わりの回復の願いをイザヤ51:3に、宣教の回復の願いをコリント第二5:20に込めている。
Ⅰ.肉に従った知り方
16節「肉にしたがってキリストを知っていた」とパウロは言う。肉というのは人間と置き換えられる。人はそれぞれの思いでイエス様を受け止めている。パウロのかつての知り方は、ピリピ3:5~6にあるよう生粋のユダヤ人、律法にも落ち度はなく、熱心の余りキリスト教迫害の先頭に立った。イエス様に対して信じ受け入れる人も、反対し罵る人もある。Cf.ベン・ハーの原作者ルー・ウオーレスは無神論者でありキリスト教を嫌悪していた。ウオーレスは反キリスト教の本を書こうとし、徹底的に調べた中でイエス様を信じざるを得なくなった。その著作がベン・ハーとなった。…人それぞれの知り方があるが、無関心であることが最も信仰から遠いものとなる。熱いか冷たいかどちらかの方がより信仰に近いのではと思わされる。
Ⅱ.神様の取り扱われ方
迫害者サウロがエルサレムでのキリスト教会弾圧に飽き足りず、ダマスコへ迫害のために向かう。ダマスコ近くで神様の光に照らされイエス様の御声を聞いた(使徒の働き9:1~8)。サウロは3日間目が閉ざされ、神様に祈り、ダマスコのアナニアの祈りによって目が開かれた。キリスト教の迫害者サウロが、イエス様の福音の伝道者パウロに変わった。心の目が開かれて真実のイエス様を見ることができた体験である。パウロが一度死んでよみがえった、イエス様の新しい命に生かされる新創造がなされた。パウロに鮮やかな新生の恵みがなされた。全ての人は新生によって神様との和解がなされる(18節)。和解は社会ではお互いの歩み寄りだが、神様と人の和解では、悪いのは一方的に人である。歩み寄るのは神様が人の所まで来られた。この世の和解とは明らかに違い、恵みであり謙って受けるしかない。
Ⅲ.世への遣わされ方
私たちは神様によって新生の恵みを受け、和解の関係に入れていただいた(ローマ5:1神との平和)。次に私たちは和解の使節として世に遣わされる。第一に私たちが受けたように神様との和解に与ろうと語る。神様との平和こそが私たちの心と魂を満たすものである。第二にこの世に和解を図って行こう。この世には争い、反感、敵意がある。国同士では戦争が、人同士では争いがあり、あちらこちらに破れがあり痛みがある。私たちはこの世に対して決して無力ではない。イエス様が最後の晩餐で「わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)と宣言され、ヨハネは世に勝つ勝利を語る(ヨハネ第一5:4・5)。この世に神様の秩序を取り戻す働きである。
主の再臨と終末によって世界は神様の元に完成する。人も世界も完全な和解と平和はそこになされていく。今私たちはその前に救いに与った者として私たちの周囲に和解と平和をもたらす者となろう。