聖書:ピリピ3:10~16

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。

今年も受難節のイエス様の十字架、イースターの復活を越えて復活節の日々をペンテコステに向かって歩んでいる。

Ⅰ.イエス様の復活の力に与る
イエス様が十字架で死んで下さったことから始まる。誰の死にも一人の尊厳の大きさ、重みを感じる。誕生から死までの間の一生は公平では無いだろうが、生と死こそは公平だろう。一人の人間の死が測り知れない大きさを持つものであれば、神であり、ただ一人完全な神であり完全な人であった御方の死がどれほど大きいかを想像できない。その想像できない大きな死から次にイエス様が復活されたことは、そこに働いた力の大きさも測り知れない。パウロの願いは、10節「キリストとその復活の力を知り」ということである。聖書で知ることは単なる知識ではなく、体験的・経験的に知ることに重きが置かれる。イエス様の復活の力は知識を越え、体験するものである。今、イエス様の復活の力は、私たちにも及ぶ(コリント第一15章)「今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」。偉大な力、絶大な力が私たちにあることにもっと驚き、心動かさられるべきである。

Ⅱ.イエス様の苦難に与る
続いて「キリストの苦難にもあずかって」とある。先の「キリストとその復活の力を知り」とは一つの文節で同列に結ばれている。キリストの復活の偉大さを知ることと、苦難を共にすることは一つのこととして受け止めることである。この手紙はパウロの獄中書簡であるが、1:29・30「苦しむこと、苦闘」がピリピの群れにもあった。イエス様を信じて従っていくことは苦しむことと切り離せない。キリスト者とされて楽な事より、辛いこと、苦しいことの方が目に付くように思える。この世的な苦しみはあっても、絶対である、永遠であるものの上に立つこの世には決してない平安、恵みである。イエス様を復活させた絶大な力、偉大な力が今私たちにも同じく注がれている。苦難にも恐れることなく、臆することなく進んでいくことができる。

Ⅲ.イエス様を目指して
13・14節「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、…目標を目指して走っている」とある。私たちは復活の命、永遠の命に生きるから永遠という目標に向かって、この一事に務めることが出来る。過去はどうあったとしても、未来の約束は現在の力となる。白樺派の武者小路実篤の言葉「この道より我を生かす道はなし、この道を歩く。」武者小路実篤は新しき村という共同体を作った。宮崎から埼玉の毛呂山に移り今もある。理想主義をかかげつつ、自己を健全に生かすと言う目標を見つめていた。私たちも理想をしっかりと持ちつつ、現実を見つめていく。私たちを生かす主の道は十字架と復活から始まって行く。

もうそんなことは解っているというところに私たちの弱さがあるのではないか。クリスティアノス(使徒11:26)キリストかぶれと呼ばれた初代のキリスト者のようでありたい。