聖書:イザヤ書51:1-8

51:1 「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。
51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やしたのだ。
51:3 まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。
51:4 わたしの民よ、わたしに心を留めよ。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばきを諸国の民の光と定めるからだ。
51:5 わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。わたしの腕は諸国の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に期待をかける。
51:6 目を天に上げよ。また、下の地を見よ。まことに、天は煙のように消え失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者はブヨのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。
51:7 義を知る者たちよ、わたしに聞け。心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らの、ののしりにくじけるな。
51:8 まことに、シミが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。」

先週は恵みの内にイースターを迎えた。今朝は新年度を迎えて旧約聖書からの教会聖句(51:3)の箇所が開かれてきた。なおコロナ禍は厳しくあるがこの先にある希望を見据えていきたい。

Ⅰ.私たちの救い
1節後半と、続く2節前半は詩歌によくある並行法という関係にある。あなたがたが切り出された岩=あなたがたの父アブラハム、掘り出された穴=あなたがたを産んだサラ、とが対になる。アブラハムはカルデアのウルの出身である(創世記11:31)。ウルの主神は月の神シンであったが、アブラハムは神様の声を聞いて郷里を離れて従った。多神教の岩盤のような場所から神様はアブラハムを切り出されたのである。妻サラも付き従ったが、サラは最初から不妊であったと記されている(創世記11:30)。現代でも子どもが生まれない痛みは大きいが、古代どれほど辛かっただろうか。やがて90才のサラにイサクが生まれる。穴から掘り出されるような体験だっただろう。アブラハム、サラが祝福の基となった。時と場所を越えて私たちの救いはアブラハムやサラのようであることが示されている。

Ⅱ.救いの恵み
4~8節の段落に神様が語られる「わたし」が18回も出てくる。しかも「わたしの義」と「わたしの救い」は対になって3回繰り返される。最初に話した用法も含めて詩歌でよく用いられる。詩や歌として受け止められる表現である。神様は義なる御方である。神様は正しいからこそ私たちは絶対の信頼を寄せることができる。義は公正であることによって保たれる(詩篇89:14)「義と公正はあなたの王座の基。恵みとまことが御前を進みます。」。神様の義はどんな時も変わることがない。神様の義は私たちの罪を憎み、神様の愛はイエス様の十字架に表され、私たちの罪の贖いは成し遂げられた。私たちの救いはここにもたらされた。神様が語られる「わたしの義」と「わたしの救い」はつながっている。私たちはこの大いなる救いの恵みに導かれている(ヨハネ第一4:16)。

Ⅲ.恵みの完成
3節には廃墟、荒野、砂漠をエデンの園のようにするとある。私たちの今の状態はどうだろうか。自分の今ある場所が潤いのない命のない場所のように思えるかもしれない。コロナ禍の現状が今までの平和や安心が失われている状態に思える。しかし、神様は廃墟、荒野、砂漠のような荒れすさんだ場所であっても、かつてのエデンの園のように命に溢れ、平和で、恵みに満ちた場所に造り変えてくださる。主の園には神様と隔てのない交わりがある。アダムとエバの関係が飾ることのない偽ることのない関係であったように人と人との関係が回復される。主の園には楽しみと喜びが溢れ、感謝と歌声が尽きない。この描写は最終的には終末の完成を待たなければならないだろうが、私たちは救いの恵みによって前味を味わわせていただくことができる。

私たちは現状に苦しんでいても、それを越えた希望を持つことができる(詩篇43:3~5)。本年度を終える時、主は導いて下さったと共に喜ぶことができることを信じている。