聖書:出エジプト19:1~14

19:1 エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。
19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。
19:3 モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。
19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。
19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。
19:9 主はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。
19:10 主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。
19:11 彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。
19:12 あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
19:13 その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」
19:14 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。

聖書全体を読み進めるために聖書各巻の緒論の第二回である。

Ⅰ.基本的なことがら
著者:伝統的な受け止めとしてモーセ(モーセ五書の第二巻)。「さて」(1:1)が冒頭にあるように、創世記の続きを同じ著者が記していることを示唆している。
執筆年代:出エジプトの年代を早期説としてB.C.1450年頃。
大区分:1~5章エジプトでの迫害、束縛、モーセの準備
6~18章10の災い、過越し、脱出、紅海渡渉、シナイへの旅
19~40章シナイ山、十戒・律法の授与、幕屋の設立

Ⅱ.基本的なメッセージ:「贖い」
神様の救いは贖うという行為によってなされる。出エジプト6:6「あなたがたを…救い出し、…大いなるさばきによって贖う(ガーアル)。」と記されている。この「贖う」とは失われたものを、代価を払って買い戻すということである。アブラハムに語られた子孫の祝福がエジプトでの虐げによって失われていた。神様は力強い御手を伸ばされて血、蛙、ブヨ、アブ、家畜の疫病、腫物、雹、いなご、暗闇を起こされた。10番目の災いは長子が殺される恐ろしい出来事になる。おごり高ぶったエジプトへの神様の裁きがあった。イスラエルの民には神様の裁きが過越すが、小羊の犠牲の血という代価が必要であった。過越しは祭として、イスラエルの民が代々守るべき記念となった。新約聖書に至って、私たちの贖いはイエス様の十字架によって成就した。神様の裁きは罪や汚れのないイエス様の上に置かれ、尊い血潮が犠牲として流された。イエス様による贖いによって失われていた私たちが神様の元に立ち帰ることができた。象徴的な事として、過越しの食事がイエス様の十字架によって聖餐に変わった。

Ⅲ.基本的なメッセージ:「契約」
神様はアブラハムと契約を結ばれていた(創世記17:7他)。神様が苦役のイスラエルの民を、エジプトから贖い出されたのは、契約を守られたからである。神様が人に対して責任を負われている。今朝の聖書箇所は、シナイ山での十戒授与の場面になる。これは人が神様に対して責任を果たす契約である(4-6節)。彼らが十戒を守ることによって神の民として聖別され、神の祝福を受け継ぐ者とされる。贖いと契約が記された出エジプト記こそが旧約聖書の土台であり、心臓部であると言われる。旧約聖書の残り37巻は出エジプト記の上に成り立ち、出エジプト記の流れを汲むものである。イスラエルの民の歴史は律法による契約の元にあった。新約聖書の時代に生きる私たちはどうか。ガラテヤ3:23~26には、イエス様以前に律法はイエス様への信仰に導く養育係であったと言う。イエス様によって神の子とされ、イエス様と共にあるので養育係は不用になった。律法が不要になったのではなく、「いのちの御霊の律法」(ローマ8:2)に移し変えられている。聖霊によって律法を全うすることができる。

私たちは繰り返される動物の犠牲ではなく、イエス様の十字架の贖いが与えられ、律法を石板ではなく心に刻むものである。出エジプト記を土台とする旧約の契約は、新約の契約となっている。