聖書:マルコ15:16~24

15:16 兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
15:20 彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
15:21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
15:22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
15:23 彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24 それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。

本日は受難日礼拝です。本日は私の67回目の受洗記念日です。この日が聖日であるのは67年間に8回、約8年に一回の割合です。

Ⅰ十字架前夜(木曜日)
①最後の晩餐=イエスが弟子たちの裏切りを指摘した際に、弟子たちは「主よ、まさか私ではないでしょう。」と答えました。しかし裏切ったのはユダだけでなく他の弟子たちも同様でした。②ゲッセマネの園=「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)この「杯」は「神の憤りの杯」(イザヤ51:17)を意味していて、イエスには覚えのないことでした。二回目と三回目にはイエスは「あなたのみこころがなりますように」(マタイ26:42)と服従の祈りを捧げました。イエスから祈りの要請を受けた弟子たちは三度とも眠っていました、これは十字架を負うことを拒んだことに他なりません。③イエスの捕縛と六裁判=イエスの祈りの後、ユダを先頭にして暴徒が押し寄せてきてイエスを捕縛しました。その後、元大祭司アンナス、現大祭司カヤパ2回による三宗教裁判、総督ピラト2回、ヘロデによる三政治裁判行われました。ピラトもヘロデもイエスを無罪としましたが、ユダヤ教徒の力で有罪とされました。

Ⅱ十字架への道
総督官邸において「緋色のマントを着せられ、茨で冠をかぶせられ頭に置かれ」たイエスは十字架を担って刑場に向かいました。①ヴィア・ドロローサ(苦難の道)=これはイエスが十字架を担いで歩かれた道の名前です。この道には14カ所の留(ステーション)があり、1から9までは旧市街、10から14までは聖墳墓教会にあります。②無理に負わされた十字架=「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」(15:21)シモンは十字架を担ぎながら、前を歩かれるイエス様の足跡を見つめ乍ら、歩いたことでしょう。③家族の救い=「選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく」(ロー16:13)ルフォスはシモンの息子、その母はシモンの妻である可能性があります。無理に負わされた十字架が、家族の救いにつながったとは、何という素晴らしい恵みでしょうか。

Ⅲ十字架を負う
①受身の信仰=「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ46:3~4)②自分の十字架を負う=長い人生には人それぞれに担うべき自分の十字架(重荷)があります。③互いに重荷を負い合う=「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)④重荷を負われる主=「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」(詩篇68:
19)⑤十字架を負って従う=自分の十字架(重荷)だけをイエスにお任せするのではなく、十字架(重荷)を背負った自分そのものを、まるごとイエスにお任せしてしまうことです。この真理を表す究極の聖句は「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)相互内住の恵みです。
この希望は御国への希望であり、栄化の恵みです。この希望を抱いて、最後まで十字架を負ってキリストに従う者とさせていただきましょう。