聖書:詩篇84:1~12

84:1 万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
84:2 私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも住みかを 燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
84:5 なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
84:7 彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
84:8 万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
84:9 神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
84:10 まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。
84:11 まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。
84:12 万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

2022年度最初の礼拝を迎えた。世界はコロナウイルス感染も収束に未だ至らず、自然災害の多発、ウクライナ戦争の終結も厳しい。荻窪、船橋両教会では栗本師・佐和師を迎えて新しい体制で進んでいく。終末が近いのならば永遠への希望も近づいている。

Ⅰ.礼拝者の願い
神殿での礼拝を慕い求め、旅路にある巡礼者の詩篇と言える。神殿でささげられる祭、個人的な礼拝のために神の民はエルサレムを目指した。詩篇では特に120~134篇までの15篇は都上りの歌と題されている。今、私たちにとって礼拝は日曜日の午前の一時にささげられている。特に今はコロナ禍にあって共に集うことが難しく、インターネット配信で礼拝を自宅等でささげてもいる。礼拝を巡る環境は大きく変わった。時代、状況が変わっても礼拝の精神は決して変わらない。ここに立たなければ礼拝そのものが変容、変質していく。真の礼拝を守り抜くという危機感を改めて持ちこの1年を過ごしていこう。

Ⅱ.礼拝者の祝福
詩篇は真の神を慕い求める礼拝者を描く。3節に「雀、燕」が出てくる。彼らは野鳥でありながら人間の社会・生活と結び付いている。人類なくして生息できない。信仰者も神様に結び付いている者であり、神様への礼拝なくして生活することはできない。6節「涙の谷」は渇ける谷と訳す聖書もある。泉の湧く所、初めの雨(10・11月に降る雨で麦作に重要)とあるように乾燥・干ばつによる飢饉ではなく、恵みの雨で潤い作物が豊かに育つ。礼拝者は現実の生活に神様の恵みにより祝福をいただく。礼拝者は10節に「あなたの大庭にいる一日は千日にまさり」、「悪の天幕に住むより」「神の家の門口に立ちたい」と言う。悪に親しんで利益を得るよりも、神様にあることが損と思えても心の平安、信仰の豊かさを得る。礼拝者は心と魂に祝福を受ける。

Ⅲ.礼拝者への油注ぎ
9節「あなたに油注がれた者」とある。「油注がれた」はメシア(新約のキリストにつながる)が使われている。旧約の時代、祭司、王、預言者に特別な任職の油が注がれた。本日は伝道師任職式、教会役員任命式、勧士任命式があり、17日はCS教師任命式、聖歌隊任命式を行う。各式に立てられている方々も神様からの油注ぎを受けて任命される。私たちは受任される方々の霊性と奉仕の祝福のために祈る者である。受任される方々は特別な油注ぎであるが、信仰者は聖霊によって油が注がれている(コリント第二1:21・22)。私たちは聖霊の宮である(コリント第一6:19・20)。聖霊によって真理を知る(ヨハネ第一2:27)。私たちは聖霊によってこの世に遣わされる者である。

私たちはこの世から選び別たれている。毎週、礼拝をささげる巡礼者である。聖霊によって油注がれている者としてこの世に遣わされていこう。