信仰の継承④雪のように白く②

聖書:ヨハネ黙示録3:14~22

3:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

次週から待降節・アドベントを迎え、主の御降誕に心備えていく。M・ルターは待降節が始まる前の聖日を贖罪の日と定めた。旧約聖書の定めではレビ記16章に、大祭司が年に1度全イスラエルの贖罪のために至聖所に入って犠牲の血をささげる。聖所の祭儀は失われたが、M・ルターは待降節の前に悔い改めと謙りのためにこの日を設けた。今朝は贖罪の日を意識しての聖書箇所は選ばなかったがこの箇所から自らを問いたい。

Ⅰ.ラオディキア教会の状態
使徒ヨハネがドミティアヌス帝の迫害下パトモス島に流され、終末の幻を見た。終りが近づく今、黙示録の重要性が増す。1章は序文、2・3章はアジアの7つの教会への使信、4~22章は幻の記事になる。7つの教会への使信は第一にヨハネの時代の実際の教会宛てである。さらに時代を超え全ての教会へのメッセージである。7つの教会に賞賛、叱責、警告、約束が記されている。7番目のラオディキア教会の状態をイエス様は冷たくもなく、熱くもなく、生ぬるい(15・16節)。また富んでいる、豊かになった、足りないものはないと言うが実はみじめ、哀れ、貧しい、目が不自由で、裸だと言われる(17節)。ラオディキア教会は信仰において無感動で無関心、霊的には貧しく乏しいと言われている。

Ⅱ.ラオディキア教会の必要
生ぬるいラオディキア教会にバックストン師は「白い衣」「目薬」「金」が必要と言われる。白い衣は潔い心を表す。ダビデは罪を認め、潔い心を求めた「確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」(詩篇51:6・7)。目薬は霊的な真実を見るためである。癒された盲人は神様の真実を見た「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(ヨハネ9:33)。金は天来の富である。聖霊による喜び、感謝、愛である「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(ペテロ第一1:8)。

Ⅲ.ラオディキア教会への招き
ラオディキア教会にイエス様は声をかけられる「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし,彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)。イエス様があなたの戸口まで来て呼ばれ、心の扉を空けるようにノックされている。イエス様はご自分から近づかれ、応答するように願っておられる。ラオディキア教会は自分たちに満足していたが、神様の御心を満たすものではなかった。イエス様は自分自身の姿に気付いて求めなさいと勧めておられる。

私たちは自分を正しく見て、欠けや不足はないのか、罪や汚れを持っていないのか。ラオディキア教会の必要を満たされたように、主は私たちの必要を満たされる。