聖書:ヨハネ1:9~14
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
本日から待降節を迎えた。降誕日礼拝まで4回の説教を神のことばをテーマにして語る。「初めにことばがあった。」(1:1)でヨハネはイエス様の降誕を語り始める。不思議な美しい響きがある。この特別なことば、神様のことばから恵みをいただきたい。
Ⅰ.神のことばとは
私たちの周囲は言葉があふれている。言葉の内容も豊かなもの、貧しいもの、暖かいもの、冷たいもの、励ますもの、貶めるもの、…様々である。言葉の区分は話し言葉、書き言葉に、打ち言葉が加わり、言葉は変化していく。神のことばは明確に違う。神のことばはイエス様である「ことばは神であった。」(1:1)。初めから存在した「初めにことばがあった。」(1:1)。三位一体の交わりを持つ「神とともにおられた」(1:2)。天地創造を行う「すべてのものは、この方によって造られた。」(1:3)。神様のいのちを持つ「この方にはいのちがあった。」(1:4)。神様の光を持つ「すべての人を照らすそのまことの光」(1:9)。神のことばであるイエス様は、やがて消える人の言葉ではなく、永遠にあり、命を与え、光を照らす存在である。ことばであるイエス様がこの世にお生まれになった。
Ⅱ.人の対応によって
神様である御方が、神でありながら人の肉体を持って生まれた。イエス様の周囲の人々はどう受け止めたのか。イスラエルの人々は「ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」(1:11)とある。最後は十字架に付けて葬ろうとしたのは、全くの拒絶である。イスラエルの人々は神様から選ばれた特別な存在で救いを受けるに相応しいと見なしていた。自分たちは血筋が正しい「血によって」、自己中心的な「肉の望むところ」、人間的な考え「人の意志」(1:13)を持っていた。イエス様を「受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(1:12)。受け入れるとは心にそのまま受け止めることであり、「ただ、神によって生まれた」(1:13)新しい人となる。そのままイエス様を受け入れることによって、新しく生まれることができる。
Ⅲ.人の間に住まれる
降誕されたイエス様は私たちの間に住まれた。住むとは幕屋、天幕を張って住むという言葉である。荒野の時代、会見の幕屋に臨在があり、イスラエル王国時代、神殿の聖所に臨在があった。イエス様が歩まれる中に臨在が表わされた。今、イエス様は天に帰られたが、イエス様を受け入れた人の心に住まれる「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)。イエス様が持たれている「恵みとまこと」(1:14)が私たちにも及び、臨在を内に持つ。イエス様は再び来られ、永遠に至る神の国が完成し、私たちも揺るがない神の民とされる「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(黙示録21:3)。完全な救い、完全な贖いを私たちは待ち望んでいる。
神様はイエス様の栄光を表わされ、救いの恵みを開かれ、完成の時が来る真実を見せておられる。すでにその中にあることを感謝しよう。