聖書:ヨハネ7:37~43

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。
7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。

先週から待降節を迎え、本日から第二週になる。本年は神のことばをテーマにして語る。先週はヨハネ1章からイエス様の誕生は神のことばが表れたと語った。今朝は同じヨハネ福音書から神のことばであるイエス様が実際に語られた言葉を見ていきたい。

Ⅰ.神のことばの現れ
イエス様はおおよそ30才(ルカ3:23)から神様の言葉、福音を語られ始めた。初めはお育ちのガリラヤ地方が中心であったが、やがてエルサレムを中心にしたユダヤに活動を移された。仮庵の祭にエルサレムの宮へ上られたことをヨハネは記す(7:1~2)。ヨハネ福音書ではここがイエス様の伝道の分岐点になる。今までは弟子たちへの教えなど準備のためにガリラヤ地方で活動されたが、その後はユダヤ、エルサレムでの働きが中心になっていく。この時までイエス様の働きは対象が限られてもいたが、ユダヤ全土に働きが広げられていく。イエス様ご自身と照らして、降誕前は預言として約束され準備されていたものが、降誕によってこの世に現れ、福音を皆に語られるようになったことと同じである。

Ⅱ.神のことばの力
「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。」(7:37)とある。人々が集まる中で、立ち上がられ、叫ばれる明らかな宣言がなされた。生ける水を私から飲むようにという勧めであった。イエス様はヨハネ4章ではスカルの井戸辺でサマリアの女性に「永遠のいのちへの水」(4:14)について語られた。サマリアの女性は求めて得られない者であったが、霊的な渇きをイエス様から満たしていただいた。この神様の恵みを人々に証しした。ここでイエス様は生ける命の水は聖霊であると語られた(7:39)。イエス様も聖霊と共に生きられたように私たちも聖霊によって力をいただき、神様の聖さと愛に生きることができる。イエス様の十字架と復活の後五旬節に、聖霊は降っている。以後、生ける水の川の流れは今も私たちに聖霊を通して注がれている。

Ⅲ.神のことばに応える
この言葉を聞いて昔の預言者だという人、キリストだという人、キリストではないという人とに分かれて争いが起った。元々、人の考えはばらばらなものである。自分の考えで見定めるのではなく神様の真実を見ることが一人一人に問われる。次章ヨハネ8:31・32では「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。』」と言われた。「とどまる」は特にヨハネが用いる大切な言葉である。口語訳聖書ではつながると訳されていた。ヨハネ15章のぶどうの木のたとえで繰り返し語られている。木と枝がつながることによって栄養分がお互いに行き交う。ここに命のつながりがあり、愛と喜びの関係が生まれる(15:9~11)。ヨハネ8:32『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。』にあるようにこのつながりは、私たちをイエス様の弟子としていく。

「神のことば」イエス様と命のつながりを持ち、イエス様の教えに生き、イエス様に従って行こう。