聖書各巻緒論39・預言書17
聖書:マラキ書4:1~6

4:1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──
4:2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は言われる。
4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。
4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」

聖書各巻緒論は、聖書を新改訳2017に切り替えた際に始めた。2021年5月16日の創世記に始まり本日の2022年度最後の礼拝で旧約聖書を終える。聖書の各巻を読まれる時に少しは参考になっただろうか。少しずつ神様を知る知識を増し加えていただきたい。地道な努力であるが正しい知識は正しい信仰につながっていく。

Ⅰ.神様への問い
預言者マラキは聖書の順の通り、ハガイ、ゼカリヤの少し後になり、ネヘミヤとほぼ同時代である。エルサレム神殿は既に再建されていた。神殿再建によってイスラエルの民は恵みに感じて信仰へと歩んでいたのか。この時、民は生活に困窮し、不信仰・不真実に陥り、神様に冷たい心を抱いていた。マラキ書には3つの不信仰な問いかけが出てくる。
1)神様の愛に対して(1:2)「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」。
2)神様の義に対して(2:17)「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか。」。
3)神様への信仰に対して(3:14)「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前に悲しんで歩いても、何の得になろう。」。神の民が疑いとつぶやきの状況に陥っていた。

Ⅱ.神様の回答
神様は背信のイスラエルに(2:17)「主を疲れさせた。」と言われながらも、一つ一つに答えられた。
1)神様の愛は注がれている(1:2~5)。ヤコブとエサウ、後のエドムを比べてイスラエルへの愛は不動である。
2)神様の義は現される(3:1~5)。やがて主が来られて不正な者を裁かれる。
3)神様への信仰は報いられる(3:16~18)。正しい人はあわれみを受け、宝とされる。神様を信じることは決して空しくないことを論証される。神様はアブラハム以来の祝福の約束を変わらずに成し遂げてくださる。彼らが不真実でも慈しみとあわれみを持たれる神様である。私たちを愛されるイエス様は(テモテ第二2:13)「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」という御方である。神様はマラキの時代も、今の私たちへも真実を尽くされる。

Ⅲ.神様が示される終末
マラキは旧約聖書にある最後の預言者として奉仕した。特に最後の4章は新約聖書へとつながっていく。4:5・6の「預言者エリヤ」はバプテスマのヨハネを指している(ルカ1:17)「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」。イエス様の道備えとしてヨハネは奉仕し、イエス様はご自分を現わされた。救いの業を成し遂げられたイエス様は、再び来られて悪を滅ぼし全てを新しくされる。その日には私たちの感謝と喜びがある(4:1~3)。マラキの預言はイエス様の降誕を越え、さらに完成を目指している。神様は真実な御方であるからこそ、この約束はやがての日に完成する。
マラキ書は旧約聖書の最後に相応しい。私たちも信仰を強くし、力をいただいて御前に歩もう(へブル10:19~25)。