信仰の継承⑤赤山講話⑧

聖書:エゼキエル書37:1~10

37:1 主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
37:3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」
37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。
37:5 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」
37:7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。
37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
37:9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

「枯れた骨の谷」はバックストン師・初期の赤山講話中、有名な説教である。

Ⅰ.枯れた骨の幻を見る
エゼキエルは、南王国ユダ・エホヤキンの時代、バビロンのネブカドネツァルによる第一次捕囚によってバビロンに移された(B.C597年、列王Ⅱ24章)。その後、5年目にバビロンの地で預言者として召された。エゼキエル書の内容はエルサレムへの審判(1~32章)、エルサレムへの終末の希望(33~48章)に大きく区分される。37章はエルサレムへの回復の預言が語られている。エゼキエルが見た37章の光景は恐ろしいものだった。新改訳2017は谷ではなく「平地」、協会共同訳は「平野」と訳した。場所はどこであれ枯れた骨が満ち満ちていた。当時のユダヤの民は外見はともかく、霊的な状態は命が失われ、枯れ果て、干からびた様子である。手の施しようがない、絶望と思える状況にあった。

Ⅱ.息が吹き込まれる
主はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるだろうか。」(3節)と問われた。人間的に考えるならば到底無理な話である。これは神様の幻であるが、歴史上も、現実にも目を覆いたくなる惨状がある。ウクライナ戦争でウクライナ軍12万人が戦死、ロシア軍20万人が戦死という見立てもある。トルコシリア大地震では5万人以上の死者が出ている。人災や天災、死の前に誰もが無力である。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」(3節)とのエゼキエルの答えは、私は何もできないが神様に委ねると言っている。創造者である神様は無から有を生み出され、土の人型に息を吹き込み生きる者とされた(創世記2:7)。神様は骨に預言すること、主のことばによって生き返ると言われた。預言によって、骨と骨が結び合わされ、筋ができ、肉が生まれ、皮膚がおおった。身体的、肉体的には完成したが、息が四方から吹いてきて、その中に入ることによって生き返った。肉体的な命を持っていても霊的な命がなければ死んだ者同然である。神のことばと聖霊という神の息吹によって人は正しく生きる者となる。

Ⅲ.よみがえりは起こる
命ある大群衆が立ち上がる、神様によるイスラエルの回復の希望がここに記されている。今は捕囚を受けているが、やがて解放され、故国で神様を礼拝する者となる。詩篇126篇は捕囚後の喜びが歌われている「主がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。」(126:1)。イスラエルの歴史に捕囚からの回復は起こった。
イエス様も死者を命へとよみがえらされた。ヨハネ11章はラザロの死の悲しみを記す。死んで4日間も経っていたラザロを「ラザロよ、出て来なさい。」(ヨハネ11:43)の一言でよみがえらせられた。ラザロのよみがえりから、真の命を持たれた御方が息を吹き込まれると、新しい命が生み出される。神様の息吹によって、私たちに命は満ち、この時代に向かって信仰によって立ち上がろう。

私たちの内にリバイバルを、私たちが生かされているこの街にリバイバルを、全日本にリバイバルを求めていこう。