聖書箇所イザヤ43:18~44:5

43:18 先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
43:19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。
43:22 しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼び求めなかった。むしろ、イスラエルよ、あなたはわたしのことで疲れ果てた。
43:23 あなたはわたしに全焼のささげ物の羊を携えて来ることはなく、いけにえを献げてわたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことであなたに苦労をさせず、乳香のことで、あなたを煩わせてもいない。
43:24 あなたはわたしのために、金で菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪でわたしに苦労をさせ、あなたの咎でわたしを煩わせただけだ。
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
43:26 わたしに思い出させよ。ともにさばきに向かおう。あなたが正しいとされるために、あなたのほうから申し立てよ。
43:27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲保者たちはわたしに背いた。
43:28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるように、イスラエルがののしられるようにした。」

44:1 「今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
44:2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。
44:4 彼らは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。
44:5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼び、ある者は手に『主のもの』と記してイスラエルの名を名乗る。」

信仰の継承10雪のように白く5

著作集第2巻「雪のように白く」はバックストン師最後の来日時の1937年の説教が収められており円熟を感じる。今回は「砂漠の大河」に収められた説教で、今回加えられた活水誌の「新しいみわざ」と同じ聖書個所であり、代表的な説教と言えよう。手に取って読んでいただきたい。

Ⅰ.乾いた地に水が流れる
イザヤは南王国ユダで長く神様に仕え、北王国イスラエルの滅亡を経験し、アッシリヤの脅威が身近にあった。イザヤの時代を超え、空間を超えて全ての人に語られる。
当時の社会は「潤いのない…乾いたところ」(44:3)という状態であった。現代の日本も同じであろう。目に見える外側は豊かで美しいが、目に見えない内側は問題が山積し、乾いた命のない世界ではないか。皆が痛み、乾き、倒れようとしている。政治や経済はその方たちに任せるが人の心や魂を潤し、活かすのは神様である「わたしの霊を…わたしの祝福を…注ぐ。」(44:3)。私たちは、今イエス様の恵みによって聖霊の豊かな流れに浴する「生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)。

Ⅱ.神様の声に聞く
神様はユダの人々に告げる「今、聞け。」(44:1)。この接続の「今」は逆接の「しかし」が含まれる。どんなに乾いた潤いのない地であっても、神様は全てを押し流す豊かな水の流れを注がれる。神様の「今」は重要であり、今この時の「時」でもある。伝道者の書3章には28の時がある「生まれる、死ぬ、植える、抜く…」。イザヤの時代のユダは良い時だっただろうか。神様はユダの人々に「疲れ果てた」(43:22)、「あがめようともしなかった」(43:23)と不信仰を指摘された。「あなたの罪…あなたの咎」
(43:24)と不義に染まっていた悪い時であった。
最初の「今」には「しかし」(44:1)が含まれていると言ったように、ユダの人々の不忠実にも関わらず神様は心を留めない、目を留めない(44:18)と言われる。神様はご自身の愛に、真実に立ち返れと招かれる「主に贖われた者たちは帰って来る。…」
(35:10)。今、私たちの贖いの保証はイエス様ご自身にある(エペソ1:7)。

Ⅲ.新しい事が起こる
今の時代は誰も想像しなかった局面を迎えている。今までの経験や知識では越えられないものもあり、世界中が巻き込まれている。次の時代への不安や恐れがあるが、愛であり、善である神様が「見よ、わたしは新しいことを行う。」と言われる。無から有を産み出してくださった創造の神様だからこそ「荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(43:19)と言われる。ジャッカルやダチョウさえも神様を崇めるのであれば、人は認めざるを得ない程の大きな業をなされる。その日には、誰もが神様に目覚め、神様にひれ伏すリバイバルが起こる。今はクリスチャンが少数派であるが、誰もが喜んで「私は主のもの」(44:5)と証しをする日が来る。私たちはその日を信じて、今できることを精一杯果たしながら、待ち望んでいく。

「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。」(43:13)