聖 書
ローマ4:1~5、

(1) それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。(2) もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。(3) なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。(4) いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。(5) しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

創世記15:1~6

(1) これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。(2) アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。(3) アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。(4) この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。(5) そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。(6) アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 『ローマ人への手紙』は、パウロがまだ見ぬローマのクリスチャンたちに書かれたものです。その中でパウロが力説する“信仰による義認”(信仰義認)は、福音の核心とも言われる教理であり、マルチン・ルターの宗教改革の起爆剤になったことでも知られています。『義認』とは『罪あるものがキリストを信じる事によって、神の前に義とされる』ことです。パウロはこれをアブラハムの信仰を模範として説明したのです。
Ⅰ.信仰義認の必要性
義なる神の前には、不義なる人間は立つ事ができないばかりか、永遠に滅ぼされるべき者でありました。しかるに愛なる神は、罪ある者をもう一度、御前に義なる者として救おうとされました。それは、人間の努力や能力によってではなく、唯、神により、義を与えられることによって義とされるのです。したがって信仰義認は、罪人を救うために必要とされた神の方法であられたのです。
Ⅱ.信仰義認の内容
(1) アブラハムの信仰に裏付けられたもの(ローマ4:1~3)
パウロはアブラハムの信仰を提示して理解を求めたのです。ユダヤ人はアブラハムを信仰の父として尊敬しており、彼らの多くは、アブラハムが義とされたのは『行い』によると考えていたので、パウロの主張は、当然、律法主義者らの反撥も予想されたのです。そこで、パウロは自らアブラハムの信仰を持ち出し、、彼が義とされたのは信仰によることを、(創世記15:6)から引用して説明したのです(同じく4:9,22参照)。またパウロは『見えるものによらないで信仰によって歩いている』(Ⅱコリント5:7)とも言い、お言葉を信じる事は、現実によらず、現実を受け入れていくことだというものです。お言葉は、神の可能性の上に立つものであることを知らねばなりません。
(2) 恩寵の賜物です(ローマ4:4)
信仰義認は神の愛に源をおくものですから、あくまでも神からの恩寵の賜物なのです。働く者に与えられるのは報酬ですが、働きのない者(罪ある人間の働きは、神の前には無力になっている)に与えられるものは、恵でしかないのです。
(3) 不信心な者を義としてくださる(ローマ4:5)
 新改訳では、『不敬虔な者』と訳されています。これは『神を疑う者』の意味が含まれます。パウロの回心は復活の主との出会いにより、彼の不信心は変えられたのです。キリストは不信心な者をも義とされるため、十字架に死なれたのです。
Ⅲ.信仰義認の結果
(1) 罪から解放される(ローマ8:33,34)
(2) 神との平和が回復される(ローマ:1)
(3) 栄光の望みが与えられる(ローマ8:30)
(4) 神の世継ぎとされる(テトス3:7)
 私たちは神からの報酬など何一つない者、不信心な者ですが、与えられている信仰義認の恵を語り伝え、勝利ある信仰生涯を歩んでいきたいものです。