聖 書:エレミヤ18章1~11節

(1) 主からエレミヤに臨んだ言葉。(2) 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。(3) わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、(4) 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。(5) その時、主の言葉がわたしに臨んだ、(6) 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。(7) ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、(8) もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。(9) またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、(10) もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。(11) それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

焼き物は我々の日常生活にあっては不可欠な実用品である。それは食事を美味しくし、生活を楽しくするために重要な役割を果たしている。その歴史は大げさに言えば人類の歴史と共に始まったと言える。古くは縄文土器、弥生土器、古墳時代にまでも遡ることができるが、7世紀以降朝鮮(陶すえ)の国から新しい技術が伝わり、土器に変化が起こった。その焼き物は須恵器と言い、これが日本の焼き物の歴史の始まりであると言われている。 
焼き物には「土器(埴輪、瓦等)、陶器(益子、信楽、丹波、美濃、越前等)、せっ器(備前、常滑、萬古、信楽等)、磁器(有田、伊万里、九谷、瀬戸、砥部等)がある。因みに日本六古窯として備前、信楽、丹波、常滑、越前、瀬戸があげられる。
 陶器についてはイザヤが好んで語っているし、エレミヤもまた18章、19章において興味深い話を伝えている。
Ⅰ.陶器師の手
 エレミヤが活躍した時代はBC627年からBC577年の約半世紀に及ぶものであった。それはユダ王国がバビロン侵攻を受け、捕囚に至る歴史の大きな転換期であった。彼はそこで神からのメッセージを受ける。それは陶器師と粘土を通して示された神とイスラエル民族との関係であった。その基本メッセージは「陶器師の手にある粘土のように、あなたがたはわたしの手のうちにある」と言うことであった。具体的には陶器師は神を表し、粘土はイスラエル民族を表していた。陶器師が粘土を自由に操って器を造り、壊すように、神はイスラエル民族を「建てる、植える」ことも「抜く、破る、滅ぼす」ことも自由であることを彼は伝えた。神は我らの主権者であられる。
Ⅱ.手の中にある器
 「陶器師の手にある粘土」とは何という力強い言葉であろうか。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(43:1)の言葉を連想する。そこには母親に抱かれた幼児の安らかさがある。農夫の手に委ねられた葡萄の枝の結実への希望がある。
宝を内に宿した器の栄光がある。牧者の手に委ねられた羊の自由がある。パウロは「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(使徒17:28)と言っている。我らは神から離れては何一つすることができない。勝利ある信仰生涯の秘訣は「神と共にあること」である。我らは「陶器師の手にある粘土」である。
Ⅲ.陶器師の手と器の関係
 神は我らに対して主権者であられる。我らは神によって造られた披造物である。それは絶対的な関係である。しかしここに「思いかえす」(8,10)という不思議な言葉がある。神は絶対的な意思を有しておられるが、その意思は決定的なものではなく人間の態度如何によっては「思いかえ」されると言う、柔軟性に富んだものであることが分かる。「抜く、破る、滅ぼす」という意思も、人が悪を離れるならば「災いを下そうとしたことを思いかえ」(8)されるのである。また反対に「建てる、植える」という意思も、人が神に聞き従わないならば「幸いを与えようとしたことを思いかえす」(10)と言われる。神は今日も「すべての者が悔改めに至ることを望み、・・・ながく忍耐しておられる」(Ⅱペテロ3:9)。
我らは神の主権を認め、神の手の中にあることを確信し、神の愛と忍耐とに応えるために日々主の意思に従いゆく者でありたく願う。