聖書:創世記41章14節~45節

14 そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。
15 パロはヨセフに言った、「わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない。聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」。
16 ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。
17 パロはヨセフに言った、「夢にわたしは川の岸に立っていた。
18 その川から肥え太った、美しい七頭の雌牛が上がってきて葦を食っていた。
19 その後、弱く、非常に醜い、やせ細った他の七頭の雌牛がまた上がってきた。わたしはエジプト全国で、このような醜いものをまだ見たことがない。
20 ところがそのやせた醜い雌牛が、初めの七頭の肥えた雌牛を食いつくしたが、
21 腹にはいっても、腹にはいった事が知れず、やはり初めのように醜かった。ここでわたしは目が覚めた。
22 わたしはまた夢をみた。一本の茎に七つの実った良い穂が出てきた。
23 その後、やせ衰えて、東風に焼けた七つの穂が出てきたが、
24 そのやせた穂が、あの七つの良い穂をのみつくした。わたしは魔術師に話したが、わたしにそのわけを示しうる者はなかった」。
25 ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。
26 七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。
27 あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。
28 わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。
29 エジプト全国に七年の大豊作があり、
30 その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう。
31 後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう。
32 パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。
33 それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。
34 パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、
35 続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。
36 こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。
37 この事はパロとそのすべての家来たちの目にかなった。
38 そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。
39 またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。
40 あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。
41 パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。
42 そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、
43 自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。
44 ついでパロはヨセフに言った、「わたしはパロである。あなたの許しがなければエジプト全国で、だれも手足を上げることはできない」。
45 パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。

 ヨセフの最も優れたところは、その信仰にあります。彼は、苦難と逆境の中にあっても、主が共におられることを信じ続けました。それは、環境がどのようであっても、誠実に生き、たゆまない努力をし、みことばによって与えられた神様のビジョンを達成する人でした。ヨセフの生涯を通して、どん底にあっても、神がいかに働かれるかを見ることができます。万事を益としてくださる神様が、ヨセフをどのように導いてくださったかを学びたいと思います。
Ⅰ.ヨセフの忍耐
 主人ポテパルの妻の悪意によって、獄屋に入れられたヨセフは、二人の囚人の夢を解き明かしました。命拾いした給仕役の長は、獄から出たらヨセフのことをパロに話して助ける約束をしました。しかし、彼はすっかりそのことを忘れてしまったのです。頼りにしていたたった一人の人が、まったく頼りにならなくなったのです。ヨセフは、そのときから2年間獄屋で過ごさなければなりませんでした。ヨセフにとって、もう獄屋を出るチャンスはないのです。獄屋で静かに過ごさなければなりません。なんとも言いがたい日々です。いつ出ることができるのか全くわからない、一生このままかもしれない、そういうなかで神を見上げる。そのときに養われるものは忍耐です。
Ⅱ.ヨセフを必要とされる時
 エジプトの王パロが夢を見るなど、誰が予測できたでしょうか?神様は、これから起こる豊作と飢饉について夢を通してパロにお語りになりました。しかし、パロ自身もエジプト中の知者も誰一人としてその夢を解き明かせなかったのです。そのとき給仕役の長は、獄中にいるヨセフのことを思い出しました。まさに神のときです。彼は、すぐさま呼び出されました。囚人であったにもかかわらず、長い間獄中で暮らしていた者であったにもかかわらず、どうどうと王の前に立ったのです。神のときが満ちるとき、目の前を阻んでいたものが、速やかに取り去られるものなのです。
Ⅲ.ヨセフの謙遜
 パロは、ヨセフに問います。「あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」(15節)。ヨセフは、答えました。「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」(16節)。ヨセフは、かつて夢を解き明かした経験を持ちます。また、幼い頃は夢見るものと兄たちから侮辱されました。そのようなものが王の夢を解き明かすのです。なんと自分は立派になったことかと、ほめたくなるような状態でした。しかし、ヨセフは、自分の力におごり高ぶりを覚えませんでした。夢の解き明かしをするのは、自分ではなく、神であることを承知していました。給仕役の長から忘れられ、獄中にとどめられたとき、養われた忍耐は、謙遜を生み出します。自分ではどうしようもできない環境、お手上げの状態の中で耐え忍んで待ち望んだとき、神が働きなさるのをヨセフは見ました。彼は神の前にただへりくだるしかなかったのです。
 万事を益としてくださる、それは、痛みも苦しみも耐えることもなく、万事が面白いほどにうまくいくことではありません。神が働かれるにはときがあります。そのときを待ち望むために、あるときには耐え忍ばなければならないかもしれません。痛みを伴うかもしれません。苦しいかもしれません。しかし、神はあらゆることを必ず見事に益に変えてくださるのです。