聖書 詩篇126篇1節~6節

都もうでの歌
1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

 紀元前10世紀半ばまでのイスラエルは、神を信頼し、神の御言葉を尊び、実際的な神の祝福を受けていた。しかし、ソロモン王の偶像礼拝を初めとし、罪を犯して神を離れた結果、国は二分し、後に北王国イスラエルはアッスリヤに、南王国ユダはバビロンに、それぞれ攻撃を受け、最後にエルサレムがバビロンの攻撃を受けて滅ぼされた。神殿は焼かれ、民の指導者は捕囚となった。
しかし、神のあわれみにより、突然の救いが与えられた。紀元前538年頃、バビロンを支配するに至ったペルシャ王クロスが勅令を発し、バビロンの捕囚となっていたイスラエル人のうち、5万人近くが、故国へ帰還したのである。すなわち、一部の一般市民42,360人、奴隷7,337人、神殿つきの歌手200人であった。
Ⅰ.一部の民の帰還 (1~3)
 神に愛された選民であるはずだが、日々捕囚の地で暮らしていたイスラエルの民は、故国への帰還をどれ程夢見たであろう。しかし、現実を見れば、そんな力もない。罪を悔い改め、ただ神だけを仰いで帰還を夢見ていたであろう。ところが、突然、クロス王の勅令の下、故国へ帰還することができたのである。民は「夢見る者のよう」(1)に感動しながら、喜んで帰った(2a)。力による勝利でもなく、人が考えもしない方法で、縛られていた地から解放され帰還できた。周囲の国々の者たちまでが、神がイスラエルの民のためにされたわざと認めた(2b)。民は、神がなされた奇跡を喜んだ(3)。
Ⅱ.更に多くの民の帰還を!(4)
 しかし、彼らは、それに満足しなかった。なおも外国にいる者たちも大量に帰還するように、神に求めて祈ったのである。自分がいる地に留まることをよしとして帰還しようとしない者がいたからである。ネゲブ(ユダの南の広がる乾燥地帯)が、乾季は砂漠状態でも、雨季になると川の状態になる。そのように、多くの民が帰るように神に願って祈ったのである。
Ⅲ.種を携えて出て行こう! (5~6)
 捕囚民が帰国後に、凶作が見舞ったという。しかし、民は知っていた。それでも、種を携え出て行ってこそ、収穫があることを。当時の農業は現代のものとは違うので、「道ばた、土の薄い石地、いばらの地、良い地」(マタイ13:3-9)に種がまかれてしまい、多くの無駄をした。そこでは、労苦や涙が絶えなかったであろう。しかし、成長させて下さる神に期待して祈り、涙をもって種まく者は、収穫の時に喜びの声をもって刈り取ったのである。神の前での悲しみと労苦は、必ず喜びと収穫をもたらすのを、忘れてはならない。
 キリスト者は、罪の束縛から救われて、先に神のもとに帰ったものである。しかし、多くの者が今も自分のいる地から離れようとせず、恵みの神に帰ろうとはしない。来週の礼拝を前に、わたしたちは彼らが神に帰って救われるよう、求めて祈ろう。そして、神の御言葉を携え出て行き、種をまくように、集会の案内をし、神の救いを伝えよう。反応が悪ければ、それだけ多くまこう。そして、喜びの声をもって、共に、神の救いの収穫を見させていただこう!