聖 書:第一ペテロ1章3節~21節  

(3) ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、(4) あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。(5) あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(6) そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。(7) こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。(8) あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。(9) それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(10) この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。(11) 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。(12) そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。(13) それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。(14) 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、(15) むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。(16) 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。(17) あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。(18) あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、(19) きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。(20) キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。(21) あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。

きょうのテーマは「救いの確かさ」です。
1.天地が造られる前から
「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていた」
(20)とは、一体誰に知られていたと言うのでしょうか。天地の造られる前には、神のほか誰も存在しないのですから、こ れは神に知られていたと言うことです。要するにこれは、キリストは天地の造られる前から存在して居られた、と語って いるのです。
 わたしたち人間は、いつ生まれて、いつ死ぬのか分からない、まことにはかない存在なのです。しかしキリストは、死 んで甦られ、天に昇られました。それは、今も生きて居られるということです。それだけでなく、キリストはこの世に来 て下さる前から存在された、と主張しているのです。それほどキリストは確かな方であるということです。キリストは神 であり、世界の造られる前から存在されたのです。
2.偶然ではなく
それは、キリストが来て下さったことは、偶然ではなく、神が計画して居られたと言うことでもあります。わたしたち人 間にとっては、物事が考えた通りには進まないと言うのが普通です。それは、わたしたち人間の不確かさの証明です。従 って人間の計画もまた不確かなものです。しかし、神がお考えになったことはその通りに実現するのです。神の救いのご 計画とは、それほど確かなものなのです。
 キリストは「現われた」と言います。キリストが誕生されたこと、十字架に付けられたこと、復活されたことは、わた したち人間から見れば、驚くべきことが「起こった」と言うしかありませんが、神の側からすれば、それはすでに計画し ていたことが「現われた」ということなのです。それがここに記されている事の意味です。
 わたしたちの救いは、神の予知に基づき、天地の造られる前から計画されていたことで、決して思い付きではなく、偶 然の出来事でもありません。ですからこの救いは確かなものだと言うことができます。