聖書:ピリピ4章9節~23節

9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
10 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
14 しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。
15 ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
16 またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。
17 わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
18 わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
19 わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
20 わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
22 すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 「人生とは、そもそも果てしなき順応の連続だ」とポーロ・S・リース師は、言われています。私たちは、何の不自由のない生活、何の不自由のない人生、心配などとは無縁の世界に生きていきたいものです。しかし、私たちの人生は、そうはいきません。日々、周りの環境、状況を受け入れ、従うことや、身に覚えのない出来事にすら、従うことさえ求められるのが私たちの日常生活です。パウロの人生もそうでした。しかし、彼自身は、周りの環境に関わりなく満ち足りて生きていました。その秘訣を学びたいと思います。
1. 何を心にとめるのか?
わたしたちの心にあるものが、私たち自身の行動を、また私たちの言葉を決定づけていきます。心にわだかまりをもち続ければ、どんなにそれを隠しても隠しきれるものではありません。不満の種などは、持ち続ければ、持ち続けるほど、心いっぱいに膨らんでいきます。パウロは、実行しなさいと勧める前に、心にとめなさいと勧めています。自分の心が今何でいっぱいであるか、冷静に点検にてみることは大切です。「すべて真実なこと」「すべて尊いこと」「すべて正しいこと」「すべて純真なこと」「すべて愛すべきこと」「すべてほまれあること」「徳といわれるもの」「賞賛に値するもの」、そういうもので心が満ちているならば、生き方も自然にそのようになってくるものです。なぜなら、「よいもの」は、イエス様ご自身からくるものであり、その人の心には、平和の神ご自身が必ず共にいてくださるからです。
2.何を学ぶのか?
 パウロは、どんな境遇にあっても、処する秘訣を心得ていると語っていますが、それを手にするためには、簡単なことではなかったことがわかります。どんな境遇であっても足ることを学んだとあるからです。あらゆる境遇の中で、足ることを学ばされたということでしょう。「学ぶ」それは、知識を得るということではありません。目が開かれるということでしょう。足りない、足りないといいたくなる状況で、いやそうではないと言えるときは、何かに目が開かれたとき、見えなかったものが見えてくるときです。それは人間的な知恵による発見ではなく、神から教えられるものです。パウロは、富に対して非難するのでもなく、貧しさこそすばらしいと賞賛しているわけでもありません。心から神に信頼している魂には、欠乏して困り果てることはないといっているのです。それがわかるために、神はしばしばあらゆる境遇の中にわたしたちをおかれるのです。
3.何を求めるのか?
 パウロは、エパフロデトを通して、ピリピ教会の援助を心から喜びました。それはありあまるところからではなく、貧しい中からささげた精一杯のささげものでした。パウロは、ここで「あなたがたの勘定をふやしていく果実」を求めているといいました。贈り物もうれしい、しかしそれ以上にあなたがたの勘定をふやしていく果実がうれしいと語っています。「あなたがたの勘定」とは、何でしょうか?銀行口座にのせられる利息をたとえています。つまり、パウロにささげたものは、神へのかんばしいかおりとなって神への供え物となると同時に、ささげた者たちへ神の祝福が注がれていくことをさしているのです。ささげたなら、その人は減って貧しくなっていくのではなくて、むしろ神からの祝福をますます受けるのです。パウロは目に見えるものも大切にしました。と同時に、目に見えないもの、そして確かにあるものを求める、そしてそれを喜ぶ人でした。
 
 わたしたちは、何を心にとめ、何を学び、何を求めているのでしょうか?目に見えるものに心を留め、学び、求めるなら、必ずその人は、目に見えるものに振り回されます。しかし、神ご自身から来るものを心にとめ、神の御心を学び、神ご自身の祝福を求めるとき、いつも満ちたりるのです。なぜなら、そのような魂は、栄光の富の中から、いっさいの必要を得ることができるからです。