聖 書:Ⅰヨハネ5章1節~13節

(1) すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。(2) 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。(3) 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。(4) なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。(5) 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。(6) このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。(7) あかしをするものが、三つある。(8) 御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。(9) わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。(10) 神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。(11) そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。(12) 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。(13) これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。

 
 
 「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ」とは、徳富蘆花の処女小説「不如帰(ほととぎす)」の有名な一節です。舞台は明治。海軍軍人の川島武男と浪子は永遠の愛を誓って夫婦となります。やがて浪子が結核にかかり、家や人間のしがらみにまみれ、離縁され、二人の間は引き裂かれます。そしてついに浪子の死によって二人は永遠に引き離されてしまいます。これは小説(実話に基づいていると言われます)ですが、今日も多くの人々が死によって引き裂かれる悲しい現実を私たちの周囲に見ることができます。「永遠の命」とは何を意味しているのでしょうか。
Ⅰ.神の命
 はじめに神は天と地とを創造され、人は神のかたちに創造されました。(創世記1:1,27参照)。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。」(ヨハネ1:1-4)と聖書は教えています。神は永遠から永遠まで存在されるお方です。神は能力と人格、愛と義を持ち合わせた命に満ち溢れたお方です。
Ⅱ.人間が初めから持っていた命
聖書は「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)と教えています。つまり堕落以前の人間には神の命が満ち溢れていたのです。そこには愛と喜び、感謝と希望が満ち、僅かの罪も見出すことができません。しかし残念ながらサタンの誘惑に負け、神の戒めに背いて、禁断の木の実を食べて以来、人間は神の命を失い神から遠く離れた存在となりました。その結果、最初の兄弟であるカインとアベルの間に早くも今日では日常茶飯事となっている殺人事件が勃発したのです。神の命を失った惨めな人間のルーツを見ることができます。
Ⅲ.イエス・キリストによって回復された命
私たちは失われた命を回復することができるのでしょうか。聖書は「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」(11,12)と教えています。神は人間の堕落によって生じた神と人との敵意という深淵を埋めるために、神みずからが人(イエス・キリスト)となってこの世に降られ、仲保者の役目を果たして下さいました。このお方を信じることによって誰でも永遠の命に与ることができるのです。
永遠の命に与ることによって、何事でも御旨に従って願い求めるならば、神は聞き入れてくださるという確信を持つことができるのです。