聖書:出エジプト33:12~16、ガラテヤ2:19~20

33:12 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。
33:13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
33:14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
33:15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
33:16 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。

2:19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

 “臨在”という言葉は、国語辞書や聖書辞典にもなく、わたしの臨在の理解は、信仰生活の中で自然に身についてきたものと思われます。今も聞かれるお言葉に、「わが臨在汝と共に行くべし」がありますが、これは、文語訳聖書 出エジプト33:14aのお言葉と思っていましたが、文語訳では、「我親(みずから)汝と共に行くべし」で、臨在の文字がなかったことから、“臨在”に関心を寄せるようになりました。
 P.ウイルクスの著書の中に、「上記の言葉は、英語文で“My presence will go with you”の日本語訳である」と記されていました。その頃「presence」を「臨在」と和訳され、キリスト教専用語として遺された先人に感謝し、み名を崇める者です。
1.臨在信仰には主の同行が伴います(出33:14a)
 新共同訳は「わたし自身が同行し」、リビングバイブルは「わたしが一緒に行く」、七十人訳は「わたしがお前を先導し」になっており、文語訳からは次第に平易になってきています。これに逆行するようですが、「わが臨在汝と共に行くべし」は今も聞かれる文語調のお言葉です。
 ここからわかるように、“臨在”とは、“主”ご自身のことです。小島伊助師は、「内住の主こそ臨在であり、その主と共に生きるところに臨在信仰がある」と言っておられます。従って、“臨在”とは単に“主”ということだけでなく、信じる者の内に生きておられる主であり、その主と共に生きることが臨在信仰です。このお言葉が臨在信仰の原点であり、世々の聖徒たちもこの臨在信仰に生き、夫々の信仰生涯を全うされたのです。
 14節の主のお言葉の背景には、モーセの神に対して必死で訴えるイスラエルの民への執り成しがあったのです。その結果、神が初心を変えられて約束されたお言葉なのです。イエス様は「失望しないで常に祈るように」(ルカ19:1)と教えておられますが、勝利するまで祈る者とならしていただきましょう。
2.臨在信仰には安息が伴います(出33:14b)
 「そしてあなたに安息を与えるであろう」(14b)。これはカナン入国による安息の約束ですが、狭義では、臨在信仰には安息が保証されるということであります。
安息は神のお働きによってもたらされた恵みなのです(創世記1:31~2:3)。私たちが主の贖いのみわざを信じ受け入れるとき、魂に安息が与えられます。聖日礼拝も神から賜る安息であり、祝福です。
3.臨在信仰はきよめの信仰です(ガラテヤ2:18~20)
 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである(ガラテヤ2:19b~20a)。これがパウロの臨在信仰です。
主を信じる者の内に生きておられる臨在の主が“きよめ主”であり、私たちが十字架の主を信じ受け入れ、すべて主に委ねるとき、聖霊はわたしの内に満ちて下さいます。これが“きよめ”です。
私たちは内に持つ宝(キリスト)を見せていく(証し)者でありたいと思います(Ⅱコリント4:7)。
 
 神がイスラエルの民たちを雲の柱、火の柱なる臨在をもって導かれたように、私たちも臨在信仰に生かされ、主の安息ときよめに与りつつ、信仰生活を続けてまいりましょう。