聖 書 ルカ24:13~34
13:この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
14:このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
15:語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
16:しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
17:イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
18:そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
19:「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
20:祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
21:わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
22:ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
23:イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
25:そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
26:キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
27:こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
28:それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
29:そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
30:一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
31:彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
32:彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
33:そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
34:「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
金 言
「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」。(ルカ24:15)
キリスト教信仰は、「死んだキリストをありがたくおがむ宗教」ではなく、「今、生けるキリストを信頼する信仰」です。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(Ⅰペテロ1:8-9 新p366)。
信仰とは、世や人や自分を見ることではなく、キリストを見ることです。「キリストが死からよみがえって、今、生きておられる」。その一点にキリスト教信仰の全てがかかっているのです。もし、キリストの復活がないとするならば、こんな愚かな宗教はないとパウロは言っています(Ⅰコリント15:12-19新p274)。キリストが生きていることを確認することから、力と確信に満ちた信仰を持つことができるのです。
キリストの復活の事実は、弟子たちにも、半信半疑の期間があったようです。本日の「エマオの途上」の記事は、その中途半端な信仰から、確信に満ちた信仰に変わっていく場面です。
ふたりの弟子は「目がさえぎられていて」(16)、「悲しそうな顔をして立ち止まった」のです。これが命のない死んだキリスト教の実態です。
「望みをかけていました」(21)とは、キリストが過去の思い出で終わって、自分は何もかわっていないという現実です。いろいろとキリストのことは論じることはするのに、生けるキリストに出会ったことはないのです。「告げたと申すのです」(23)という他人ことで、自分のことではありません。人は、キリストの復活をすんなりと信じることはできないのです。それは、人(自分)の「罪と死の現実」から、一歩も出られないという現実です。何を見ても聞いても、「死んでおしまい」という現実を超えることができず、「悲しそうな顔をして立ちとどまる」のです。そして、また、とぼとぼと「死への行進」に進めるだけです。
しかし、キリストは、よみがえって、弟子たちにあらわれてくださいました。よみがえったキリストと一緒に歩く「永遠のいのちへの行進」が始まるのです。死が現実である以上に、キリストの復活と、生けるキリストとの出会いは現実です。主イエスの方からの出会いです。弟子たちは「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」のですが、主イエスは時間をかけ、忍耐をもって語りかけくださるのです。これは先行的恩寵(恵み)です。弟子の方も、「強いて引き止めて」います。
主イエスは、ご自分の復活の事実を、旧約聖書の預言の成就から論証しています(25,26,44,45)。生けるキリストに出会うとは、感覚的、神秘的なことではなく「聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心を燃える」(32)ことです。代々の聖徒たちも、この経験を大切にしてきたのです。
主イエスが食卓につき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しているうちに「彼らの目」が開かれました。弟子たちは、主イエスに養われ、支えられていたことを思い出したのです。復活され生けるキリストは、わたしたちの現実を養い支えてくださる生ける神です。