聖 書  ヨハネによる福音書第18章15~18節、25~27節

15:シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。
16:しかし、ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった。
17:すると、この門番の女がペテロに言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」。ペテロは「いや、そうではない」と答えた。
18:僕や下役どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼らに交じり、立ってあたっていた。
25:シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼はそれをうち消して、「いや、そうではない」と言った。
26:大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。
27:ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。

金 言 
 大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。 ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。    (ヨハネ18:26~27)
 讃美歌243番「ああ主の瞳」(新聖歌221番)は私の愛唱歌の一つです。作詞者の井置利男先生は関西聖書神学校の25回生(1955年卒業)で、日本バプテスト連盟の教職です。彼は神学校に行く前に信仰の確信が得られず、自己嫌悪に襲われていた時に「主はふりむいて、ペテロを見つめたもう」(ルカ22:61・文語訳)と言う聖書の言葉に触れ、「井置よ、もう自分を責め立てることはやめろ、そのお前の罪の全部をこの私が代わって負っているんだから、お前は十分に赦されている者として生きろ・・・」と呼びかけていて下さる主イエスのお心を、彼はその眼差しの中に見たのでした。
ペテロの自負心
彼はイエスの筆頭弟子であるという自負心を常に抱いていました。彼の責任感は尋常なものではありません。イエスが「人々は人の子をだれと言っているか」と尋ねられた時、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)、イエスがご自分の受難を示し始められた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずごございません」(同16:22)、最後の晩餐の後イエスが「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」(同26:31)と言われた時、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(同26:33)と発言しています。ゲッセマネの園では、大敵を向こうに回して剣を抜いたのは彼だけでした。イエスが捕縛された時にはイエスの弟子たちは逃げ去りましたが、彼は大祭司の中庭にまでイエスに従って行きました。これらの言動は決して出任せではなく、彼の自負心(責任感)から出たものだったのです。
ペテロの三度の否認
 イエスはペテロに対して「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」(ヨハネ13:38)と預言しておられました。そのイエスの言葉はペテロの心に重くのしかかっていた事は容易に理解することができます。その預言がいつ、どのような状況の中で、どういう人を通して実現するとは、だれが予想することができたでしょうか。イエスの預言はその日のうちに、炭火を起こして暖をとるという緊張の中でのしばしの憩いの場において、女中と言う身分の低い人物を通して実現、成就したのでした。
 門番の女が「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」(17)と言ったのに対して、ペテロ「いや、そうではない」(17)、人々が「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」(25)と言ったのに対して、ペテロは「いや、そうではない」(25)、マルコスの親族が「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」(26)
と言ったのに対して、ペテロは「それを打ち消した」(27)のでした。「するとすぐに、鶏が鳴いた」のでした。
ペテロの失敗
  彼はイエスを否認した後、「外に出て激しく泣いた」(マタイ26:75)のです。彼の否認は明らかにイエスに対する背信行為であって、取り返しのつかない大失敗だったかも知れません。しかし、バークレーは深い洞察力をもって次のように注釈しています。「確かにペテロは失敗した。だが彼は、真実にイエスを愛する者のみが入り得た状況の中で失敗したのである。・・問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペテロであったということである。庭園の月あかりの中で、ひとり剣を抜いたのが真実のペテロであった。自分の主を残して去ることができなかったためにイエスに従って行ったのが真実のペテロであった。緊張に押しひしがれ、主を否認したのは、真実のペテロではなかった。そして、それがまさにイエスの理解するところであった。イエスについて目をみはらざるを得ないことは、失敗だらけのわたしたちの奥底に、真実の人間を見て下さることである」と。
  私たちの人生はペテロの失敗とは比較にならない程の大きな失敗の連続ではないでしょうか。イエスの愛はどこまでも広く、長く、高く、深いものです。自分の失敗や弱さを責めることなく、すべてを赦し包み込んで下さるイエスを仰がせて頂きましょう。