聖 書 マタイによる福音書第6章7節~13節

7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

金 言 
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。(マタイ6:13)
1.われらの日用の糧を今日も与えたまえ
 私たちは「日用に糧を今日も与えたまえ」と祈らなければならないほど、毎日の食物を得ることが切実ですか。食糧難の時代はともかく、私たちの周りにはとりあえず必要な食べ物は十分あります。このような祈りは私たちには無用でしょうか?そうではないのです。出エジプトしたのちのイスラエル民族が荒野でマナという神様からの贈り物がなかったら滅びてしまったように、日ごとの生活になくてはならないものを神さまにいただくことがなければ私たちも滅びてしまいます(出エジプト16:1~36)。私たちの日ごとのいのちは、パン(食物)に頼り、パンによって形づくられています。この祈りは、必要なものすべてが神さまからの贈り物として与えられていることを私たちに教えてくれます。ところで人が生きていくための食物についてイエスさまは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われます(マタイ4:4)。つまり神の言葉によって人は生きるという霊的な面を強調しています。荒野でマナが与えられたとき、イスラエルの民はそれぞれ一日に必要な分だけ集めることがゆるされました。私たちは日ごとに神に向かって手を差し伸ばさなければなりません(ルカ12:16~21)。私たちが目覚めるごとに、もしも自分たちが今ここに存在して、自分たちにいのちに意味と実りがあるとするなら、それは神さまが日ごとに与えてくださる贈り物のゆえですから(箴言30:7~9)。
2.われらに罪をおかす者を、われらがゆるすがごとく、われらの罪をもゆるしたまえ
 キリスト教は罪のゆるしを教える宗教です。私たちは罪深い者ですから、神さまに罪をゆるしていただかなければなりません。キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたことによって、神さまはそのことを信じる人の罪をすべてゆるしてくださるのです。これが福音です。ゆるしは単に自分への恵みとして留まるだけでなく、私たちの周囲にいる人々への「ゆるしの精神」として広がっていくべきなのです。この祈りから「罪」と「ゆるし」について学びます。まず罪とは「自己への反逆である」と言われます。つまり、人間が本来あるべき姿と全く違った姿で生きている状態です。自分では自分のあるべき姿がよくわかっているのに、そうできない現実があります(ローマ8:15~23)。また罪とは「神様への反逆である」と言われます。時々自分には罪がないという人がいます。けれど人が誰かに迷惑をかけられたら、その人は他人の迷惑はよく覚えています。人間は他人の罪は非難しますが、自分の罪は認めないものです。厚かましく自己中心的な存在です。人間関係においての罪はもとを正せば、神への反逆につながります。この祈りは「ゆるし」を私たちに教えます。ゆるしとは倫理の問題ではなく救済の問題です。人が他人の罪をゆるすのは美しい行為ですが、それは倫理的な行為です。しかし神さまが人の罪をゆるすことは、救いのわざです。ゆるしのもとは神さまにあり、ゆるされた結果が、他者へのゆるしに及んでいくのです(マタイ18:21~35)。
3.われらをこころみにあわせず悪より救いいだしたまえ
 「試み」というと、病気、事故、貧困、悩みなどの苦難を想像します。クリスチャンにとって試みとは私たちを信仰の道から挫折させるものです。「試み」(ギ:ペイラスモス)には2つ意味があります。①誘惑②試練 <誘惑>と訳すと悪への誘いという意味から悪いニュアンスを受けます<試練>と訳すと人の決心とか意思を試すという意味を持つので、悪い響きだけには聞こえません。主の祈りは誘惑と訳したほうがこの祈り全文の意味が通りやすいです。クリスチャンは誘惑にあうことが、すなわち罪を犯したわけではありません。イエス様も荒野で誘惑に会われましたが罪は犯しませんでした。人の3大誘惑は、①お金(物欲)②性(性欲)③地位や権力(自己顕示欲)と言われます。誘惑を受けることは誰にでもありますが、 サタンの誘惑に負けて行動に走るとき罪になります。「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26:41)。 お金も性も社会的権威もそれ自体が悪いものではありませんが、サタンはこれらを手段に人を誘惑し罪を犯させ信仰を挫折させようとしています。誘惑に弱い私たちは悪よりお守りくださいと祈ることが必要です。