聖 書
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。(使徒行伝9:31)

今日は地上に教会が発足したきっかけを生むペンテコステ(聖霊降臨日)をお祝いし、記念する礼拝です。イエスを信じる者が聖霊を待ち望んで心を合わせて連鎖祈祷会をするうちに十日目に聖霊が下りペンテコステとなります。それ以降の弟子たちは迫害を物ともせず十字架と復活を大胆に宣べ伝えます。その説教を聞いて人々は救いを求め教会に押し寄せます。こうして教会は聖霊の主導で増え広がります。一方で強い迫害がおこり弟子ステパノが殉教すると、この日を境にエルサレム教会に大迫害が起こり、信徒はユダヤとサマリヤにばらばらに散らされてしまいます。一見悲壮な出来事ですが、意外にもこの事件が福音の前進に役に立つのです。そのわけは「散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」(8:4)からでした。俗に「雨ふって地かたまる」と言われます。もめごとが起こった後などは、かえって物事が良い状態になることを現しますが、このことわざは教会の発展にも相通ずるところがあります。

1.効果的な伝道は良いチームワークから生まれる
使徒9:31に「こうして」とあるとおり、ここから教会の発展する要因を見出すことができます。まず互いの御霊が一致することです。使徒9章では回心したサウロが仲間から信用されたのは、彼らに信任が厚いバルナバの口利きでした。お互いに信頼と信仰の絆でしっかりと結ばれた良いチームワークが出来上がります。パウロには効果的に伝道するためにルカやマルコを始め多くの仲間(同労者)がいました。彼らはつねに祈り協力しながら一人でも多くの人の魂が救われるために、喜んで共に汗を流し働きました。伝道は一人でやろうとすると負担に感じますが、行き詰まった時でもチームがいれば祈って話し合い知恵を出し合い壁を乗り越えることができます。教会に集う各自が異なった賜物をいただいているので何倍もの力が発揮されます。教会は一人の人を救うという共通の目標のためには、自分たちが主にあって良いチームワークを育むことです。

2.救われた人は聖霊が生かし用いる
 使徒6~7章に出てくるステパノは信仰と聖霊に満ちた人でした(5)。彼の顔は天使のように輝いていました(15)。彼の愛と信仰に富み寛大で赦しに満ちた態度は殺されるまで少しも変わりませんでした。彼のこうした姿に心動かされた人々もいたでしょう。使徒8章ではピリポがサマリヤに行き、人々にキリストを宣べはじめます。また他の者も「使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。」(8:25)とあります。ピリポは聖霊に促しを受けて、神を礼拝するためにエチオピヤから来た人に福音を伝えます(8:26~39)。ステパノやピリポは聖霊によって福音のために用いられました。人は一旦聖霊に自分を明け渡すと決めれば、あとは聖霊が自由にあなたを用いられます。あなたの隠れた能力や才能を引き出し有益に用いることができるのはあなたのうちにおられる聖霊です。

3.あなたがたは聖霊の力を受ける
 イエスが昇天される前の約束は「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…わたしの証人となるであろう」(1:8)。パウロは当時の最高水準の神学教育を受けて語学はギリシャ語も話せる頭の切れる伝道者でした。しかしあのパウロでさえもこう言っています。「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。」(Ⅰコリント2:4)。パウロは自分の伝道は生まれ持った能力や得た知識を頼みにするものではなく、聖霊による力の証明によるものですと断言しています。聖書知識がない、みことばがすらすらと出てこない、答えに窮する質問で困ったら恥をかく、もし拒絶され人間関係が気まずくなるのが面倒だ、私たちはいろんな理由で自分を納得させて福音を人に話すことをあきらめます。自分でなくても雄弁で博学な人が伝道すれば良いと考えます。この人に福音を伝えたいと意気込むとなぜか固くなってしまいます。肩の力を抜いて聖霊にすがりながら、証やお祈りから始めましょう。神は預言者ゼカリヤに「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ4:6)と励まされました。教会の宣教は聖霊に励まされて前進します。

【今日の祈り】
神様、教会はつねに聖霊に励まされて宣教は広がってゆきました。私たちの教会も主をおそれ、主に従い、御霊の一致によって伝道のために良いチームワークが生まれ、救われる人が増えてさらに発展し神様のみ栄えがあらわれますように。