聖 書  ピリピ4章6~7節
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

金  言 何事も思い煩ってはならない。

 今年最後の聖日礼拝を守るに当たって導かれた箇所です。光陰矢の如しと言われるように、過ぎてみるとあっと言う間の一年でしたが、今年を振り返って神の恵みを改めて思い起こしたい。

1.思い煩ってはならない
  おおよそ人は年の初めに立てた目標も、残すところあと数日となった年末には記憶の彼方に追いやってしまうものです。計画したのに事が運ばず出来なかったあれこれ、締め切りが迫っているのに完成の見通しが立たない。本当にできるのかなと訝しがる。長く祈っているのに祈りが聞かれない。問題が山積している等々。それでも聖書は思い煩ってはいけないと言っています。マタイ6:34では「明日を思い煩うな」と言っています。人生の計画を立てることは悪いことではありません。「備えあれば憂なし」とも言います。とは言え将来を考えているときに心配し過ぎて不安に陥り、今日なすべきことが手に付かないのは考えものです。考えあぐねてしまうようでは本末転倒です。Do your best.あなたが今日為すべきことの最善を尽くすには、思い煩いを神の御手に一切お任せすることです(ヤコブ4:14-16)。

2.感謝を込めた祈り
 ご存知のように、ピリピ人への手紙はパウロがローマの獄中で書いた手紙です。牢屋は快適で安全な住環境とは言えません。加えて投獄の身であるパウロに明日生きられる保証などありません。普通に考えるならパウロが思い煩ったとしても当然です。パウロ先生の逮捕を憂いてパウロが開拓したピリピの教会は、悲しみと動揺を隠せません。自分たちもいずれ投獄されるかもしれないという恐れや不安で思い煩いが生じたでしょう。しかしそんな心境のピリピの教会にパウロは事ごとに感謝をもって祈りと願いをささげなさいと励ましています。事ごとにとは感謝するというのは起こることは何でも具体的に感謝しなさいということです。その中には普通では到底感謝できないことでさえも入っているでしょう、神は人に出来事が「なぜ」起こるか原因は教えられません。そこを苦悩するより、「何のために」というわたしたちに対する神の目的を教えていただこうではありませんか。そのために「にもかかわらず…」という試練を恵みに転換する逆転の創造的な発想との常に恵みを数える習慣が必要です。私たちにとって都合の良いことも、ありがたくないことも、全ては神の恵みなのです。そして一年の最後の礼拝ほど神の恵みを探して神に感謝をささげるのにふさわしい日はありません。「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」 (Ⅱコリント 4:15)。私たちが感謝する度に地上に神の栄光が現れるのです。日々の黙想書にこういう一文がありました。「神は私たちよりはるかに賢い方です。主がある方向へと導かれる際には、すでに全体の青写真を見て、私たちにとって何が最善かを知っておられます。」私たちは自分の目に見える部分的な写真でなく、神が一人ひとりに持っておられる完成図神の青写真に期待しましょう(伝道の書3:11、14)。

3.人知を超えた神の平安
 感謝を込めた祈りから生まれるものは「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」です。それは神が最善以下のことはなさらないという信頼であり、「万事を益とする神」を疑わない信仰からくる希望です。それは災難とも思える出来事が、神の御手によってどのような恵みに変わるのか「神のお手並み」に期待する心です。パウロは鉄格子の中で現実に打ちのめされてしまうのではなく、望みなきところにおかれたからこそ、神ののみ望みをおいて神の恵みと平安に生きられたのです。人は状況判断に流されやすいですから、自分の心や思いを、人を恐れさせ神から離れさせる悪いものから守る必要があります。私たちの避けどころは神です。救いの岩となられたイエス・キリストをどんな時にも仰ぎましょう。すべても平安の根拠はこの救いにあります。イエスは約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」 (ヨハネ 14:27)。世が与えることのできる平安は、富や人の力など一時的で限界があります。しかし「わたしの平安」は永遠かつ絶対です。揺れ動く波に漂う小舟でも、イエス・キリストという岩に錨を下ろしていれば、浮き沈みはあっても舟は転覆したり流されることはありません。新しい年も恵みに生かされ、騒がしい世にあっても平安な日常をキリストにあって過ごせるようにお祈りしましょう。