金  言
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 17世紀にジョン・バニアンによって書かれた「天路歴程」は、現在までクリスチャンに読み継がれてきた傑作です。主人公は自分の住む滅びの町から、救いを求めてさまざまな誘惑と試練にあいながら危険な旅を続けます。彼は旅の途中まで背中に大きな荷物を背負っているため苦しみあえいでいます。聖書は「あなたの重荷は神様のもとに降ろしなさい」と語ります。わたしたちは救われるとき自分が背負ってきた罪の重荷を、十字架でイエスに肩代わりしていただき自由の身になれます。救われた人は罪の重荷を捨て去り、イエスさまはあらたにあなたが負うべきものがあると言われました。それが「自分の十字架」です。では「自分の十字架を負う」とはどういうことでしょう。

1.十字架と復活を予告するイエス
 イエスさまはご自分が実際に捕えられる前に、やがて必ずユダヤ教の宗教学者たちから苦しみを受け十字架で殺されるが、わたしは三日後によみがえりますと弟子たちを集めて何度か予告をしています。人は未来に何が起こるか全く知りえませんが、神の子イエスさまにはこれから起ころうとすることがわかっていました。ですからイエスさまは十字架予告を弟子たちに告げるベストなタイミングを計っていました。そこでイエスさまは弟子たちに自分を誰と考えるかを尋ねます。ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」という的を射た答えをしてイエスさまを喜ばせます。イエスさまはペテロの答えに満足され、自分に対する正しい認識ができているとして、「十字架と復活の宣言」を弟子たちに限定して公表をします。ところが弟子たちはそれを聞いて正しい理解ができず、かえって恐れて戸惑ってしまいました。それはイエスさまの十字架と復活は、弟子たちが思い描いていた神の国の完成予想図とはあまりにかけ離れていたからです。しかし聖書は「おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」 (Ⅰコリント15:36)と死んでこそ生かされるという原則を教えています。

2.十字架を恐れて拒否する人間
 ペテロはイエスさまが「自分は将来、十字架につけられて死にます」という予告にあわてふためいて、人間的な思いから「そんなことがあるはずはございません」といさめはじめます。ペテロの考えではイスラエルが待ち望んできた救い主がこのお方なら、イエスさまが死んでしまわれたらすべての望みは失われてしまうからでした。ペテロは救い主を死に至らしめる十字架から、自分が救い主を命がけで守ろうと意気込んだ結果、十字架を恐れて拒みました。しかしイエスさまの返事は意外でした。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)とペテロやほかの弟子たちを驚かせるような痛烈なペテロへの批判でした。イエスさまは同様の言葉を荒野で本物のサタンから誘惑を受けた時にも命じられました(マタイ4:10)。イエスさまは宣教の使命を妨げる者は弟子のペテロの口から出た言葉でもサタンの計略だと見抜きました。わたしたちもペテロによく似た部分があります。それはクリスチャン自身が十字架をネガティブなこととしてとらえて、「神のことを思わないで、人のことを思って」救われていない人に福音を語ることを恐れあきらめしまうことはありませんか。クリスチャンが十字架と復活を語らないことを、何より喜ぶのはサタンでそれはサタンの思う壺です。

3.あなたの十字架を負って従う
 人は救われたとき一度自分が抱えていた罪の重荷を降ろして、すべてをイエスさまに肩代わりしていただくことができます(マタイ11:28~30)。あなたは罪の重荷がなくなったからと言って、気の向くまま好き勝手にしていては問題が起こります。もしあなたが救われたのちあなたの内側に御霊とみことばを満たした状態にしなければ、空家に空き巣が入るように汚れた霊はまた舞い戻ってきます(マタイ12:43~46)。救われた後のあなたの目標はイエスさまに似た者となることです。だからよそ見しないでイエスさまを目当てにイエスさまに従っていきましょう。そのために大切なことは「自分を捨てる」ことです。それはわたしが満足すること…ではなくて、イエスさまを喜ばせるために、小さな自分には何ができるか考えて見ることです。それが「自分の十字架を負う」ことなのです。人と比較する必要はありません。救われた後に何か「重荷を持つ」ことは大切です。神さまがあなたの賜物を何かに重荷を持って教会で奉仕するときに、キリストのしもべとして役立ててくださいます。