聖  書:Ⅰペテロ3章15節~17節

(15)ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
(16)しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
(17)善をおこなって苦しむことはそれが神の御旨であれば悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。

 

今の時代、信仰の証しはそんなに深刻な問題になるものではありません。しかし、使徒ペテロの時代はキリスト教を迫害する時代でしたので、証しすることは命に係わる問題でした。日本では証ししたことで命が奪われることはありませんが、人々との関係が断絶される危険性はあります。それを恐れて、信仰を告白するのに消極的です。証しすること自体を恐れています。ところが、迫害があるところだからこそ、貴重な証者です。貴重な証者なので、私達の証しは世界中のどこよりも価値があります。少ないチャンスを生かして証し続ける人になりたいです。

I. 証しが出来る基盤(15節)

証しするために三つが必要です。一つ目は証しする人の信仰告白が必要です。イエス様が私の唯一の主であることの告白がないと証しは出来ません。二つ目は心に望みを抱くことです。その望みは言葉、行動、考え方など生活の中で自然に表れます。三つ目は証しを聞いてくれる人です。ペテロ3章ではキリスト教を迫害する権力者が裁判のために証しを聞いてくれました。生活の場が証しの場です。主は今週、生活の現場でどんな形で、私を用いてくださるのでしょうか。

II. 証しの具体的内容(15節)

15節「望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」。証しの内容を用意しなければなりません。主にイエス様に関することです。イエス・キリストが成して下さった救いの御業と十字架の赦しです(過去の出来事)。その十字架は過去の事だけではなくて、現在私の心におられます(現在)。そのイエス様が未来、再臨なさいます(未来)。イエス様の過去、現在、未来が主な内容です。伝道は単なる感化で終わってはいけません。生き方の魅力で終わってはいけません。最後は必ずイエス様の話をしなければなりません。イエス様の愛より私の人格、人柄、品性を伝えたことで終わりやすいのが日本に住んでいる私達の悩みであり、限界です。

III. 証し者の姿勢(16,17節)

やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明する姿勢が必要です。証しや伝道は裁きではありません。私達は裁き主ではありません。預言者ヨナのメッセージを語るのは駄目です。憐れみとやさしさと慎み深さ、それにプラスして弁明する姿勢が必要です。弁明は自己弁護です。法廷で自分が証ししていることが真実であることを証明することです。私達が信じていることが正しいものであることを生活の中で証明しなければなりません。 証しする人は善を行いながら苦しむことがあります。善を行って苦しむのが神の御旨であるなら喜んで受け入れたいです。善を行いながら苦しむのはなぜでしょうか。それは私達がイエス様の弟子だからです。