聖 書 ローマ人への手紙12章1~8節
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
12:6 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
12:7 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
12:8 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

金 言
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ12:2)

わたしは昨日、神戸から飛行機で東京に帰ってきました。連休で神戸空港の待合室は混雑していました。いよいよ機内に搭乗する時間が来てアナウンスが始まりました。大勢の人を混乱せずに狭い飛行機の中に誘導するために、飛行機会社は優先搭乗というのをします。まず真っ先に搭乗できるのは2歳以下の幼な子と親です。幼い子どもたちは嬉しそうに機内に入っていきます。わたしは思わずこれは天国に入る順番と同じだなと思いました。イエスは「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言われました。次に優先順位の高い人は航空会社の特別な会員カードを購入しているステイタスなビジネスマンたちでした。わたしたちが神の国に入る優先の権利にはさらに高価な代価が神からすでに支払われています。「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、」(ヘブル10:19)とあります。神がわたしたちのために用意された最良の贈物を感謝して受け取ろうではありませんか。

今日は救われた人たちが始める「キリストにある新しい生き方」について学びます。わたしたちは救われた後、救いを知る前の古い自分と決別して新しい生き方を始めなくてはなりません。ではキリストにある新しい生き方とは今までの自分の生き方とどう違うのでしょう。

1.神に喜ばれる生き方

新しい生き方の一番目は一瞬一瞬「神に喜ばれる生き方」(1,2)を選んでいるかということです。古い人の性質は喜びとは主に自分を楽しませるものでした。新しい生き方はまず「自分だけを喜ばせることをしてはならない。…隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。」(ローマ15:1~2)です。わたしたちは困っている人を助けようと、その人のために自分は何ができるだろうかと考えて実行することです。よきサマリヤ人のたとえでは同朋のユダヤ人が見捨てた行きずりの病人を犬猿の仲と言われたサマリヤ人は駆け寄って手厚く介抱しました。わたしたちは他人事として関わりを持つことを敬遠してしまいます。しかし主は自分自身のように隣人を愛しなさいと言われます。しかしそこまでならみためはヒューマニズム(人間尊重主義)と変わりありません。キリスト者はさらに踏み込んで神を愛することです。パウロは「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」(ガラ1:10)と言っています。わたしたちの善い行いへの動機はあくまで人の歓心を買うためではなく神に喜ばれるためです。だから「この世と妥協してはならない。」(2)のです。人の目を意識しすぎると「何が神の御旨であるか」は二の次になります。わたしたちは常にキリストのしもべとして福音を恥じることなく愛をもって伝える用意をすることがキリストにある新しい生き方です。

2.思いあがることがなくキリストのからだを愛する

二番目に新しい生き方は互いにへりくだり愛し合うことです。わたしは「実るほど首を垂れる稲穂かな」という句が好きです。これはキリスト者にも当てはまることだからです。わたしはキリスト者が若いころから信仰を持っていることを自慢の種にしたり、自分の昔の信仰体験を誇ったりする態度はあまり好ましくはないと感じます。しかしそのエピソードを話すことが教会の批判や不平に終わらず、結論が神をほめたたえるための強調になるなら聞き手は恵まれたと思うでしょう。パウロはピリピの教会に「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」(2:3)と言いました。教会の一致は互いに「慎み深く思う」(3)態度から始まるのではないでしょうか。

3.賜物を生かし用いる生き方

新しい生き方の三番目は「賜物を生かし用いる」ことです。6~8節を読むとキリスト者は一人ひとり異なった神の賜物が与えられています。教会は色んな個性や特色を持った人が集まりますが烏合の衆であってはなりません。教会に集められた子どもと大人の全員がキリストを頭として仰ぎ「キリストにあって一つのからだ」(5)を構成するのです。人のからだにそれぞれの役割や得意分野があるように、キリスト者も自分にいただいた賜物を他の人のために惜しみなく使って主に仕えようとします。もし仮に誰かが教会のために賜物を活かそうする時、周りのクリスチャンがそのことを喜んで祈って助けようと一致するなら、神はキリストの有機的なからだを喜ばれてその教会を祝福なさいます。