聖 書 ガラテヤ5章16~25節
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

金 言 「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」                                     (ガラテヤ5:25)

今日はペンテコステ礼拝である。聖書によればイエスさまは十字架による死から三日後によみがえられ、マグダラのマリヤを始め弟子たちに復活を顕現(神がはっきりとした形をとって現われること)された。その後、「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(Ⅰコリント15:6)、四十日後に弟子たちの目前で天に昇って行かれた。弟子たちはイエスさまがご自分と交代して聖霊があなたがたに下ると言われた約束を信じてイエスさまに従った婦人たちと祈り始める。ついに祈り手は百二十人に膨れ上がり聖霊を待つ祈りがなされた。祈り始めて十日後、死から復活された五十日目に聖霊が下った。この日は教会の起源とされる。以来二千年間現在まで福音宣教は続けられ、救いを信じて霊が新たに生まれ変わる人は全世界に今日も起こされている。パウロはクリスチャンになった人はいつでも御霊と歩みなさいと命じている。

 

1.御霊と肉

バプテスマを受けて信仰生活を始めたので、あらゆる悩みは解消して試みや誘惑を一切寄せ付けなくなった というクリスチャンは稀である。わたしたちは神の子どもとされ神の側につくものとなったのであるから、サタンは巧みに誘惑を仕掛けて、わたしたちをなんとか信仰の道から脱落させようと狙っている。であるから、神は悪いものから守ってくださるとはいえ、クリスチャンになると霊的な戦いが数々あることも確かである。「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)とあるとおりである。ではどうやって霊と心を悪いものから守っていったらよいのか。パウロは「御霊によって歩きなさい。」とその秘訣を話す。意外にもここで悪いものとされるのは、自分の外からやってくるものではなく、救われたわたしの心の内を占めている「肉の欲」(19)である。17節は御霊と肉の位置関係である。御霊と肉は両極端にあり、決して相容れないプラスとマイナスの電極のようで、また必ず分離する水と油のような間柄である。だから「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反」して同居はできない。つまり神の御霊がクリスチャンの心を占拠している限りは、肉の思いはどうやっても増殖することができない。もし御霊と肉が心に混在するならば、「二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないように」なるという。御霊は「自分でしようと思うこと」(肉の思い)をNO!と断って、軟弱なわたしたちの信仰を誘惑から守ってくれるのである。

2.肉の働きと霊の結ぶ実

19~23節は肉の働きと霊の結ぶ実との正反対の違いについて述べている。肉の働きは大きく分けて二通りである。それは24節にある「情と欲」で、新改訳ではわかりやすく「情欲と欲望」と説明している。情欲に関することは「不品行、汚れ、好色」(19)である。欲望は「偶像礼拝、まじない」など異教的なもの、「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ」など支配欲や権威欲である。また「泥酔、宴楽」といった享楽に対する飽くなき欲望である。パウロは救いを受けていない人々に向かって語っているのではではない。クリスチャンになっても救われる前と変わらない習慣で常習的な罪を犯し続けるなら、「このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」(21)とパウロは警鐘する。ヘブル10:26から29節では「真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。…さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。」とある。この場合の罪は過失ではなく故意に犯し続ける罪である。その一方で霊の結ぶ実の素晴らしさを語っている。霊の結ぶ実は人間の努力によって結ばれるものではなく、キリストと一致した人間に宿る聖霊によって結ばれる。22節の「愛」から始まる九つの御霊の実は他の徳と並列ではない。愛はすべての基礎であり源である。樹木でも花が咲かない木は寂しいものですが、実のなる木は喜びをもたらしてくれる。わたしたちはヨハネ15章のぶどうの木のように、御霊によってイエスさまとつながり豊かな実を結ぶお互いとされたいものである。

3.御霊によって歩む

御霊の実と呼ばれる徳は、Ⅰコリント13:4~7の愛の特質と似ている。聖書はキリスト者の愛とは、他人を尊びその価値を認め自分の利益を追求せず、むしろ他人の幸せを望み喜んで犠牲を払うことをイエスさまのご生涯によって教える。であるから、聖霊によって生かされるキリスト者の愛の生活は、自己中心的な人間の欲望を十字架につけてしまうことである。そのうえで「御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もう」(25)とパウロはすべてのクリスチャンを励ましている。誘惑に負けて肉の欲のとりこになりそうなら、今すぐ肉を慕う思いを消してわたしを御霊に満たしてくださいと祈りましょう。