聖 書 エペソ1章22~23節
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

金 言 「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」    (エペソ1:23)

昨日は介護に関するシンポジウムが荻窪で開かれ150人を超える方が集まり、福祉と伝道を聖書的に考える有意義な機会となりました。実際に介護職に就いているクリスチャンの方が遠く長野県からも来られていることを知り励まされました。それというのも今、介護職は3K(きつい、きたない、きけん)と言われ、常に人手は不足しているのに離職率は高いそうです。先の3Kに加えて介護職は「給料が安い、休暇が少ない、カッコ悪い」とされ6Kと揶揄されています。一方で介護職はクリスチャンがイエス様の愛を実践するのに、最も適した仕事のひとつであるとパネリストが言われました。しかし誰にでも長くできる楽な職種ではなく、この仕事に「使命」がないと続かないそうです。キリスト教は常に贖罪的な実践が伴い、十字架を喜んで担うという自己犠牲を惜しまない、イエス様に似た品性を持つ人を求めています。

私たち自身は介護職に就かなくても、キリスト教主義の学校と教会は祈りと献金、人材養成の面で支援を行うことは急務です。誰もが喜べる老後を支える社会に貢献することで、日本人にキリスト教の愛の精神が伝われば、宗教を警戒するする人も、信仰に対して肯定的になっていくと思います。イエス様は言われました。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)パネリストから新しい3K「清く、気配りし合え、光栄な職務である」が提唱されました。今日は23節の「教会はキリストのからだ」ということをお話したいと思います。

1.からだはお互いを必要とする

昨日の基調講演の題は「おめでとう」に始まり「ありがとう」で終わる人生でした。誰にとってもこの世に生を受ける誕生の瞬間は喜ばしいものであり、たとえ先天的に病気や障害を持って生まれてきても、生まれないほうがよかったなどという人はこの世にひとりもいません。人の誕生は偶然でもなければ生理的な必然でもありません。人の生は神様の深い摂理のもとに計画され、ひとり一人はその人がなぜ生まれたか(意味)となんのために生まれたか(目的)があります。それとともに人間のからだは緻密に機能的に造られていて、無駄なところがありません。からだのお互いの部位は勝手に存在するのではなく、連動して助け合って一つの体を構成しています。からだの部位がお互いを必要とするように、キリストのからだである教会にとってもその教会にとってムダな人はひとりもいません。お互いがお互いを必要としています。聖書は「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要」(Ⅰコリ12:22)と言い、強者が弱者を食いつぶす世とは正反対です。「それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うため」(25)です。教会は群れに属するひとり一人が自分の欠けと弱さを素直に認めへりくだって、相手の必要とあれば喜んで応えようと気を配るなら、地上にあっても教会は天国に一番近い場所になります。教会は弱いあなたを必要とします。教会は弱い人に仕えることで、イエス様のからだと呼ばれるにふさわしく成長を遂げ変化するのです。

2.シンパシーをいだき合うからだ

シンパシー(sympathy)とは同情、共感という意味です。先週の肉の働きの中に「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ」(ガラテヤ5:20-21)がありました。教会でこれらが始まったら破滅です。クリスチャンは人より抜き出たい、周囲の人に負けたくないなど闘争心や権威権力の誘惑に負けてはいけません。むしろクリスチャンは他の人に痛みやキズに敏感であろうと心がけ、いたわり合って生きるべきです。教会はいつも「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」共同体です(ローマ12:15)。喜びは喜びは合えば倍増しますが、悲しみは他者と分かち合うことで苦しみが半減します。パウロは信仰のためならどんな迫害を耐える強靭な人でしたが、その一方で傷ついた人に配慮のある心やさしい人でした。自分の身に危険や試練が起ころうとも、コリントの教会を案じて「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」(Ⅱコリント11:29)と言っています。

3.自己犠牲的な愛を与えるからだ

キリストのからだである教会は、かしらなるキリストの願うことを目に見える形で世に示していき、地上の神の国が実現するところです。キリストの愛とは自己犠牲的な愛です。パウロはコロサイの教会に「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)と言います。十字架が不完全だったわけではありませんが、イエスさまに似た愛のかたちというのは、惜しみなく自分を与える愛です。かしらが望む愛のかたちが、からだなる教会に現れるようお互いに励みましょう。