聖 書:歴代志下29:25~36

(25)王はまたレビびとを主の宮に置き、ダビデおよび王の先見者ガドと預言者ナタンの命令に従って、これにシンバル、立琴および琴をとらせた。これは主がその預言者によって命じられたところである。
(26)こうしてレビびとはダビデの楽器をとり、祭司はラッパをとって立った。
(27)そこでヒゼキヤは燔祭を祭壇の上にささげることを命じた。燔祭をささげ始めた時、主の歌をうたい、ラッパを吹き、イスラエルの王ダビデの楽器をならし始めた。
(28)そして会衆は皆礼拝し、歌うたう者は歌をうたい、ラッパ手はラッパを吹き鳴らし、燔祭が終るまですべてこのようであったが、
(29)ささげる事が終ると、王および彼と共にいた者はみな身をかがめて礼拝した。
(30)またヒゼキヤ王およびつかさたちはレビびとに命じて、ダビデと先見者アサフの言葉をもって主をさんびさせた。彼らは喜んでさんびし、頭をさげて礼拝した。
(31)その時、ヒゼキヤは言った、「あなたがたはすでに主に仕えるために身を清めたのであるから、進みよって、主の宮に犠牲と感謝の供え物を携えて来なさい」と。そこで会衆は犠牲と感謝の供え物を携えて来た。また志ある者は皆燔祭を携えて来た。
(32)会衆の携えて来た燔祭の数は雄牛七十頭、雄羊百頭、小羊二百頭、これらは皆主に燔祭としてささげるものであった。
(33)また奉納物は牛六百頭、小羊三千頭であった。
(34)ところが祭司が少なくてその燔祭の物の皮を、はぎつくすことができなかったので、その兄弟であるレビびとがこれを助けて、そのわざをなし終え、その間に他の祭司たちは身を清めた。これはレビびとが祭司たちよりも、身を清めることに、きちょうめんであったからである。
(35)このほかおびただしい燔祭があり、また、酬恩祭の脂肪および燔祭の灌祭もあった。こうして、主の宮の勤めは回復された。
(36)この事は、にわかになされたけれども、神がこのように民のために備えをされたので、ヒゼキヤおよびすべての民は喜んだ。

聖書で礼拝と訳される言葉はいくつかある。用いられ方から礼拝とはを見ていく。旧約聖書でシャーハ-「礼拝」という言葉は25回出てくる。旧約中もっとも多い礼拝と言う言葉である。ひれ伏すと言う意味がある。

Ⅰ.偉大なヒゼキヤ
ヒゼキヤ王は紀元前700年前後に生きた南王国ユダの第13代目の王である。同時代南王国ユダでは預言者イザヤ、ミカが活動した。北王国イスラエルは紀元前723年頃にサマリヤが陥落し国が失われた。両国共に正しく危機の時代である。ヒゼキヤは宗教的、政治的、軍事的に偉大な指導者であった。歴代志下29-32章、列王記下18-20章、イザヤ書36-39章と各書に長い記述がある。南王国ユダは北王国イスラエルに比べ150年ほど長く続いた。ヒゼキヤ王の宗教改革とイザヤ、ミカの活動があったからと言われる。ヒゼキヤの父アハズは悪い王であった。バアルを始めとした偶像礼拝を持ち込み、アッシリヤに助けを求めた。戦争に負け、主の宮の戸を閉ざして、偶像の祭壇を築いた。ヒゼキヤは政治的な指導を父アハズにならわず、王国の父祖ダビデにならった。ヒゼキヤは宗教的な指導はイザヤに仰いだ。王国の歴史を見ると悪王から善王が生まれる、善王から悪王が生まれる。神様を第一にするのは当然である。世にあって誰の言葉に従うのかに大きな違いがある。

Ⅱ.ヒゼキヤの礼拝
ヒゼキヤの治世で、最初に行なわれたことは父アハズが閉ざしたエルサレム神殿の扉を開くことであった。宮をきよめ、繕うためにレビ人たちを立ち上がらせた。祭司たちに命じて神殿の祭儀を復活させた。エルサレム神殿で真の神様への礼拝が復活したのが今朝の箇所である。罪のあがない罪祭からささげられた。この時ユダの民は王から始まった偶像礼拝の罪を犯していた。罪をきよめることが第一にあったが、イスラエルのどの祭儀にも罪祭が初めにある。罪の告白、罪の赦し無くして礼拝は始まらないことを示す。罪祭は燔祭である。焼き尽くされる全焼のいけにえとしてささげられる。香り良き供え物として天に立ち昇っていく。地上の人間の礼拝が、天につながっていることを示す。この時、燔祭と共にシンバル、立琴、琴、ラッパの奏楽があって、主の歌が賛美された。ささげものと賛美が繰り返された式順序の様子がうかがえる。この時のささげものには公のものがあり、個人の供え物もあった。礼拝の中に祈祷など全体でささげるもの、個人でささげるものの要素がある。エルサレム神殿での祭儀にも礼拝の始祖を見出すことができる。それらは現代の礼拝につながる大切な要素である。

最後に「この事は、にわかになされたけれども、神がこのように民のために備えをされたので、ヒゼキヤおよびすべての民は喜んだ。」(36節)とある。神様は私たちが礼拝をささげるようにと予め備えてくださっている。ヒゼキヤによって礼拝が復興された。常に新しい気持ちをもって礼拝をささげよう。