聖 書 マルコ2:1~12

(1)幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
(2)多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
(3)すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
(4)ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
(5)イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
(6)ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
(7)「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
(8)イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。
(9)中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
(10)しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
(11)「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
(12)すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

2016年初めての西船橋での御用に感謝。今年の新しい歩みのために祈る。

Ⅰ.人々が集まる

今日の聖書箇所は有名な中風の人の癒しの記事である。聖書の中ですさまじさを感じる箇所である。イエス様が神様の働きに立ち上がられてまだ間もない時代、多くの人々がイエス様の元につめかけていた。イエス様はガリラヤ湖の北にあったカペナウムを中心に宣教の働きをなさっていた。この日も一つの家でイエス様は話をされていたが、入りきれないほどの人が集まっていた。皆がイエス様に会いたい、イエス様の話を聞きたいという、生き生きとした光景である。そこに1人の中風の人が床に寝かされたまま4人の人に運ばれてくる。道行く人はどれほど驚いたかと思う。もっと驚くことに、一行はイエス様がおられる家にはとてもは入れない、普通ならば仕方ないであろう。この人たちは中風の人を寝たまま、屋根までつり上げ、屋根をはいで天井から吊り下ろしたという。屋根をはぐ音がする、家の持ち主は叫んでいる、見物する人々は騒ぎ立てる、家の外も中も大騒動になっていた。

Ⅱ.イエス様のまなざし

イエス様はこの大騒ぎの中で何を見られ、何を感じておられたか。それは信仰である。それはどの人の信仰なのか、病気の人自身の信仰はもちろんだが、病気の人を御元に連れてきた人々の信仰も含まれていた。私たちはまず、病気を患っていた当事者の信仰と思うが、それだけではない。その彼らの信仰の姿とは、

<とりなしの信仰> 自分のため自分の満足ではなく、他人のことを思いやり、考えていく信仰。私たちは信仰を神様と自分という個人的な関係だけで考えやすい。もちろん信仰は一人一人から始まる。人の最善を願い、人のために労していく信仰がある。イエス様はその信仰を受け入れられ、喜ばれました。

<協力の信仰> 私たちは、信仰を個人個人別々のものとも考えやすい。人を導くのも一人一人が別々にと思っている。中風の人を床に乗せて運んできたのは4人の人である。この床とは、担架のようなものを指す。4人が息を合わせて、歩調をそろえなければ病気の人は転げ落ちてしまう。心を合わせて一つになっていく信仰に主は働いてくださいます。

<大胆な信仰>この人たちの信仰は何よりも大胆な信仰である。見方によっては人の迷惑を考えない非常識、あるまじき行為で言語道断と言われようか。常識の範囲で、ほどほどの行いでという所に神様は豊かに働かれるだろうか。時には垣根を越えていくような信仰が必要ではないか。エレミヤ30:21「誰か自分の命をかけてわたしに近づくものはあろうかと主は言われ

Ⅲ.イエス様の赦し

イエス様は彼らの信仰を受け入れてくださって、この人の病を癒された。すぐに床を取り上げて歩いて出ていく、即座に完璧な癒しがなされた。病院で大きな手術を受けたということであれば、何日目に起き、その後リハビリを受け、ようやく退院する。その場に立ち上がって何事もなかったかのように帰って行きます、これを見て人々は大いに驚きました。もっと驚くべきことは、イエス様は神様ですから罪を赦す権威を持っておられるということである。律法学者たちはイエス様が神であることを否定し、その言葉を疑い、つまずいた。

やがて、イエス様はご自身を十字架の上にささげて、命と引き換えに罪の赦しを成し遂げてくださった。中風の人が癒されたこの時、やがて起こることへの約束の部分である。今私たちは十字架と言う神様の真実の前に、罪の赦しを誰も疑うことはできない。罪の赦しはそこにとどまらない。もっと豊かで、もっと大きいものである。イエス様の十字架による罪の解決は行いによる罪だけではない、罪を犯させる根本にある心の奥底にも届いてくだる。ローマ5:17~21、アダムに始まった人類の罪の赦しが、イエス様の十字架の死によって全ての人に及んだことが記されている。救いは罪赦されて終わるのではない。さらに6章には私たちは罪に対しては死んだ者であり、私たちはキリストによって神に生きる者とされる(6:11)。神様に義とされた者として神様のきよさに積極的に生きる者に変えられていく。アダムに始まる罪の状態は古き人、この古き人はイエス様の十字架によって滅ぼされてしまう。新しき人を着ることができる。Cf.信じなければ始まらない。第二次大戦後のブラジルで勝ち組・負け組があったという話がある。日本が戦争に勝ったのか負けたのかをどう論議しても真実は一つしかない。

中風の人が目の前で立ち上がって床を取り上げて歩いた。私もそんな光景は見たことはない。イエス様の罪の赦しは、罪の行いを赦される、罪の根本にある心の奥底にも働かれて新しい人とされる。心の内を造り変えていってくださる。それはこの世の中のどこにもない。こんな事はまだ一度も見たことがないという赦しときよめがなされる。私たちもこの世の中にはない新しい人として歩もうではないか。