金 言 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたをらんだのである。」(ヨハネ15:16前半)
聖 書 エペソ1章1~6節
(1) 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。
(2) わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
(3) ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
(4)みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
(5)わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
(6)これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
目下、受験シーズンたけなわです。就活はさらに厳しい状況です。それぞれの学校や企業には選択の基準が設けられています。だれしも志望する学校や会社に入ることができればこれ以上の喜びはありません。キリスト者の場合は神による一方的な選びによって行われます。神の選びに関して考えてみましょう。
1.選びの主体 -だれによって選ばれるのか。
選ばれるということは何事においても名誉な事です。国政選挙は国民によって、大臣は総理大臣によって、オリンピック選手はそれぞれの競技連盟によって選ばれます。しかしキリスト者は人間レベルの選出ではなく、「父なる神」(3)が選んで下さるのです。つまり天上のレベルによって選出されるのです。
2.選びの精神-どのように選ばれるのか。
何事においても選出の過程においては、人間的な思惑が働きやすいものです。しかし神の選びにおいては、そう言う要素が介入する余地はありません。「天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」(3)とある通りです。
3.選びの時期-いつ選ばれるのか。
聖書は「天地の造られる前から」(4)と記しています。私たちの寿命は短いものです。聖書は「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう」(詩篇90:10)と記しています。平均年令が高くなってもたかが知れたものです。よく考えて見ますとキリスト者の人生は何と大きなスケールではありませんか。あまり細かいことで悩むのは、キリスト者には似つかわしくありませんね。
4.選びの規準-何を規準にして選ばれるのか。
どのような世界においても選出には規準があります。神は何を規準にして私たちを選ばれるのでしょうか。聖書は「御旨のよしとするところに従って」(5)とあります。「ただみこころのままに」です。今年の初場所大相撲は10年ぶりで日本人関取から優勝者が出ました。琴奨菊の快進撃は本当に素晴らしかったですね。大相撲の勝敗を決めるのは行司です。時々物言いがついて最後の決着は審判員がします。関取自身には異議を唱える資格はないのです。私たちの人生の真の行司は神様です。神様の審判は全く差し違えすることはないのです。
5.選びの手段・方法-だれを介して選ばれるのか。
聖書は「キリストにあって、イエス・キリストによって」(3他)と記しています。神のすべてのみわざはキリストを介して行われます。またキリストは「子は父のなさることを見てする以外に、自分から何事もすることができない。」(ヨハネ5:19)と言われました。つまり父なる神と子なるイエスは常に一心同体の関係なのです。神はみ子イエス・キリストを神と人間との仲介者としてこの世に遣わされました。キリストは十字架上の贖いによって見事に仲介者としての役目を果たされたのです。
6.選びの動機-どのような動機で選ばれるのか。
聖書は「愛のうちにあらかじめ定めてくださったのである。」(5)。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)とあるように、愛は神のご本質です。そもそも「神は自分のかたちに人を創造された」(創1:27)のです。ですから堕落した人間をいつもいとおしく思われ、人間の救いのために惜しみなくひとり子をこの世に遣わされたのです。
ここに選びの動機が潜んでいるのです。
7.選びの目的-どのような目的で選ばれるのか。
聖書は「みまえにきよく傷のない者となるように」(4)、「神の子たる身分を授けるように」(5) 選ばれたと記しています。これらの目的は事前のものであって、究極の目的は「御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」(6)と明確に記されています。行き先不明の旅行が不安であるように、目的不確実な人生もまた無意味なものです。神は明確な目的のために人間を創造し、堕落した人間に意味ある目的を持った人生を歩ませるために私たちを選んで下さったのです。
私たちは外見だけでは、誰が神に選ばれた人で、誰が選ばれていない人であるかは分かりません。選ばれている人を見つけるためには、福音をより多くの人々に伝える以外に方法はないのです。