聖 書 エペソ人への手紙5章26~27節
(26)キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
(27)また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

4月10日から西船橋・葛飾町から大神宮下・宮本での礼拝が始まった。1か月遅れとなったが開所礼拝を持つことを心から主を崇める。エペソ書が続いて開かれているが、エペソには古代世界の7不思議に数えられるアルテミスの大神殿があった。パウロは第三次伝道旅行の途次3年に渡ってエペソで伝道した。パウロはⅠコリント16:8・9でエペソには有力な働きの門が大きく開かれていると言っている。大神宮下と最初に聞いてパウロの言葉をまず思い起こした。偶像の神ではなく真の神様の栄光を拝させていただこう。

Ⅰ.かしらとからだの関係
エペソ人への手紙はパウロの教会論が最も良く記されている。教会とは1:22・23にキリストがかしら、教会がキリストのからだであると定義付けられている。頭脳が支配する身体と言う当時のギリシャの医学観・身体論に大きく影響されている。教会の秩序と言ことはあるが、イエス様と教会を上にあるもの、下にあるものというただの上下関係と捉えることではない。イエス様はブドウの木と枝というように、一つの生命体のつながりを持ちだす。ブドウの木に枝がなければ、ブドウの木は枯れてします。木も枝も両方が必要である。同じように頭だけ、身体だけと言う存在はない。かしらとからだという関係は、上下ではなく天にあるもの地にあるものという、天上と地上の信仰的、霊的な関係と捉えるべきである。

Ⅱ.夫と妻の関係
今日の5章は神様に愛されている者として、神様にならう者となりなさいとの勧めから始まる。光の内にある者として、闇の時代にあっても光に歩みなさいと言う。その締めくくりは21節の「互いに仕え合うべきである。」となる。神様にならう者、光に歩む者というと哲学的な話になるのかというと、具体的な仕え合いなさいとの勧めである。人間は自己中心な存在であって、仕えるということが出来づらい者である。イエス様が最後の晩餐の席で始めに示されたのは弟子の足を洗うことであった。ここでは妻たる者、夫たる者というように夫婦の問題が取り上げられる。先のかしらとからだは一つの命のつながりである。切り分けることのできない一体のものである。夫と妻は最も近い関係であるが、別個の命である。ここで問われるのは関係である。イエス様が教会を愛されている。教会はイエス様の愛に応えて仕える者であることが示されている。

Ⅲ.地上の教会と天上の教会
今日の聖書箇所はやがて教会が神様に迎えられる栄光ある姿が出てくる。教会の現在の姿は、しみ、しわ、汚れ、傷もある。それは教会には、破れも、欠けもあるということである。教会は不完全であるが、戦い続ける存在である。弱さがあっても強め、欠けを補い、破れを繕いながらの戦いである。やがて栄光の勝利が約束されている戦いである。教会が神様に迎えられるのは終末の時である。何時かは解らないが、終わりと勝利は約束されている。私たちの果たすべき戦いを全うさせていただこう。教会の教理と実践を結び合わせるのは聖霊の働きである。
主の尊い救いに与った私たちは神の家族として一つにされ主の栄光を表わそう。