聖 書:使徒行伝3:1~16

(1)さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、
(2)生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。
(3)彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。
(4)ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
(5)彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
(6)ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日記念礼拝を迎えた。教会の大切な記念日の内で、クリスマスはイエス様の誕生日であり解りやすい。イースターはイエス様の復活で、そのようなことが起こるのかと解りづらい。ペンテコステは聖霊が降った。聖霊が一番解りにくいだろうが、聖霊こそが私たちと一番近い神様である。

Ⅰ.聖霊の実
旧約聖書の時代に聖霊は特別な人に、特別な機会に降った。王、預言者、祭司らが任命される時に降った。限られた時、限られた人に対してであった。ヨエル書2:28・29の聖霊降臨の預言では性別、年令、身分に関わらず聖霊が注がれる。聖霊によって神様の言葉が語られ、希望と期待が明らかにされる。聖霊降臨がいつ成就されるのかは解らなかった。イエス様の誕生、十字架の死、3日目のよみがえり、天に上げられた昇天、その後に弟子たち信徒たちの祈りが満ちて聖霊が降った。旧約聖書の預言、イエス様の約束の成就であった。聖霊は人に働いて、人を造り変えることができる。造り変えられた人を用いて神様の新しい業を起こさせることができる。エルサレムに教会が生まれた後、最初の実を見ていこう。

Ⅱ.信仰の実
ペテロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に入ろうとした。美しの門に足が不自由で物乞いをして暮らしていた男性がいた。壮麗な神殿の美しの門と哀れな物乞いの姿は何と対照的であっただろう。殆どの人々が見て見ないふりをして通り過ぎて行っただろうが、ペテロとヨハネは足を止めた。神殿の周辺で物乞いをしていた人は少なくなかったと思う。彼らが足を止め、声をかけたのはこの人であったのは何故か。16節「信じる信仰のゆえに」「イエスによる信仰」とある通りに信仰があったからこそである。物乞いをしていたこの人の信仰は大きかっただろうか。ペテロとヨハネに施しを期待したのだから、あったとしてもわずかな信仰だったはずである。小さな信仰であっても見過ごされてはいない。その信仰にも神様は働かれる。即座にいやされたこの人は、立ち上がり踊りだす。

Ⅲ.新たなる実
この人は賛美しながら神殿へとペテロとヨハネと共に入っていった。神殿は礼拝の場である。この人は今まで神殿の入口にいながら座り込むことしかできなかった。人は信仰によって造り変えられる、新しくされる。神様を礼拝し賛美するものになる。この人が癒され、健やかになり、魂が新しく生れたことは多くの人々の驚きとなった。このことから始まった出来事は3・4章へと続き、詳しく記されている。エルサレム教会が生まれた時に多くの恵みの業がなされていっただろう(「多くの奇跡としるし」2:43)。しかし、聖書に詳しく記されたのはこの出来事のみである。この人の癒しは多くの人々への証しとなっていった。この人の救いは多くの人々に神様を知らせることになった。

聖霊は一人の人を造り変える。その人を通して他の人々がイエス様と出会い、イエス様の御業がなされていく。私たち自身が聖霊によって新たに造り変えられる者となろう。