聖 書 エペソ人への手紙 2章11~18節
(11)だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
(12)またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
(13)ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
(14)キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
(15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
(16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(18)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
6月29日未明(日本時間)トルコの最大都市イスタンブールに空港テロ事件が勃発した。36人が死亡し、負傷者は140人以上に上るという。9/11事件以来テロ事件、自爆事件は世界規模において繰り返し行われ、未だに沈静化する気配はない。一方、国内に目を転じると、老若男女を問わず、奇っ怪な事件が後を断たない。愛のもつれから老老介護の顛末に至るまで、痛ましい限りである。すべてにおいて共通していることは、生命の軽視であり、神との平和の欠如である。70億人の最少単位は夫婦であり、親子であり、兄弟である。そこに真の平和がないと、幾ら声高に平和を叫んでみても、唯々虚しさが残るだけである。聖書は「キリストは平和であって」と教えている。
Ⅰ.血による平和の必要性 (11~12)
小島伊助師は、2章1節から11節までは「引き上げる救い」であると言い、12節から18節までは「近づける救い」であると言っている。前者が立体的であれば、後者は平面的である。ここでは遠い者が近くされた恵みを語っている。敵対関係にあった者が友好関係になったことが語られている。つまり両者の間に平和が実現したのである。この両者とは誰を指しているのか。一つは選民と異邦人であり、二つは神と人間であると考えて良い。
両者の間には平和が回復されなくてはならない。それは人間の知恵や画策では到底実現するものではない。両者の間には埋め尽くすことのできない深い淵があり、壊すことのできない隔ての垣根が立ちはだかっている。
1.キリストを知らず、
2.イスラエルの国籍がなく、
3.約束の契約に縁がなく、
4.希望もなく、
5.神もない者であった。
Ⅱ 血による平和の効力 (13~16)
イスラエルは神に選ばれた民であるにも関わらず、神との間には大きな隔たりがあった。
聖書はそれを「敵意という隔ての中垣、数々の規定から成っている戒めの律法」というように表現している。これらは人間の知恵や知識ではどうすることも出来ないものであった。その効力はただ神のみが持っておられ、それがキリストの血なのである。
1.キリストの血によって、近いものとなった。
2.ご自分の肉によって、戒めの律法が廃棄された。
3.彼にあって、新しい人に造りかえられた。
4.十字架によって、神と和解された。
Ⅲ 血による平和の宣伝 (17~18)
キリストの血によって平和が実現した。しかし大切なことはそれが多くの人々に伝えられることである。今やキリストは我らの内に来られて平和が伝えられている。更に聖霊の中にあって、父のみもとに近づくことが出来るのである。父への接近、合一、合体こそがキリストの血が我らにもたらす最大の恵みである。
キリストの血を崇め、そのもたらす平和を家族から地域へ、地域から国に、国から世界へと実現して行きたいものである。